サイゼリヤと富士塚

言わずと知れたイタリアンレストランチェーンの「サイゼリヤ」。
この店もまた、「本物の雰囲気」を味わう場所である。ここでいう「本物」とは本場イタリアの食文化のことであり、実際に公式ホームページを見ると「サイゼリヤは、創業以来イタリアの豊かな食文化を丸ごと日本へ持って来て、日本のお客様に喜んでもらおうという理念」があるという。
サイゼリヤにいくとき、私たちは本場イタリアを疑似体験しているのだ。

そう考えると、江戸時代の人々が富士塚で経験することと似たことを、現代人も行っているのだと気が付く。
そもそも、富士山に登るのだってイタリアに行くのだって、どちらも大変である。それが、近所で済んでしまうのだ。これが富士塚の醍醐味であり、サイゼリヤの醍醐味でもあるだろう。

一つのチェーンでしかないサイゼリヤとの比較だけで、チェーンと言ってしまうのは乱暴かもしれないが、少なくとも富士塚の「チェーンっぽさ」の一端を感じることができるのではないか。

「コピー」への愛が富士山を日本人に広めた

先ほども指摘したように、日本人の「富士好き」は目を見張るものがある。そして、それと同時に、(Twitterでよく話題に上がることからも分かるように)日本人はなぜかサイゼリヤが大好きだ。
「コピー」に謎の愛情が存在する点において、なんだか、サイゼリヤ好きの感じが、どことなく富士好きの感じとダブって見えてくる。どちらも本物ではない「コピー」なのだが、日本人はその「コピー」になにかを見出しているのではないか。

そして、話を富士山に戻すならば、こうした「コピー好き」という側面こそ、富士山がこのように日本人に広まった理由だと思われてならない。
一般に我々は、オリジナルとコピーを区別して考え、オリジナルこそ重要だと思いがちだ。しかし、富士信仰では、「富士山」というオリジナルに対して「富士塚」というコピーにも、その霊験が認められている。もしも日本人がオリジナル、つまり「富士山に行くことでしか霊験が得られない」という価値観しか認めないのであれば、富士山はここまで私たちの生活に深く入り込んでいなかっただろう。
富士塚という「コピー」があり、そしてその「コピー」への愛があったからこそ、富士山はこのように我々の生活に広まったのだ。

都内には、まだ登ることのできる富士塚がいくつかある。ぜひ、自分の足でこの「コピー」を登り、富士信仰の効果を得たいところだ。

富士山はチェーンである_b
鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士