講和で必ず伝える「空白の10年」

こうして清水弘士さんの体験と思いを中心に、独自の原稿を書き、スライドを用意して、2024年から伝承活動をするようになった長峰さん。

「子どもの頃から周りの人たちが戦争の話をしてくれて、広島で清水さんに出会い、戦争によってもたらされた核兵器の本当の恐ろしさを深く学ばせてもらった。振り返るとまるで、全部繋がっている一本の道のように感じています」

そう話す長峰さんの講話は、胸に迫る言葉で満ちている。

広島平和記念資料館で伝承講話をする長峰さん
広島平和記念資料館で伝承講話をする長峰さん

中でも長峰さんが必ず伝えるのは、清水さんがぜひ知ってほしいと切望し、自身の証言でも語っていた「空白の10年」についてだ。

空白の10年とは、広島と長崎の被爆者が行政から支援もなく、お金がないために病院にも行けず、差別と偏見に苦しんだ時間を指す。

原因は戦後日本を占領したGHQが1945年に「プレス・コード」という規則をつくり、報道や出版を取り締まったことにある。新聞や出版物が検閲され、原爆の悲惨さ、放射線の後遺症などの事実が隠蔽され、原爆被害によって苦しむ被爆者は存在しないことにされてしまった。

日本政府も、被災した人に治療や食事を無料で支給する法律を規定通り2か月で打ち切った。広島に53か所あった救護所は全て閉鎖、被爆者は治療や生活の支援を受ける道を閉ざされてしまった。

原爆の詳しい情報がない中、被爆者は差別や偏見に苦しんだのだ。原爆投下から7年後の1952年、日本がサンフランシスコ平和条約によって占領状態から独立すると、「プレス・コード」も廃止される。

そして1954年、ビキニ環礁でのアメリカの核実験によって第五福竜丸などが被爆し、初めて日本の人々が核兵器の被害を実感することになる。

その後、のちにノーベル平和賞を受賞することになる日本被団協が結成され、1957年には原爆医療法の実現により、国の費用で被爆者の治療と健康診断が行われるようになった。

原爆投下から12年もの間、公的支援を受けられなかった清水さんは、被爆で亡くなったお父さんに代わって闇市で生活を支えたお母さん、お兄さんと共に、原爆症と貧困に苦しみながらも、なんとか生き延びたという。

空白の10年は、国の指導者が戦争を形式上終わらせても、被害者にとっての戦争は終わらないことを示している。清水さんは「あの悲惨な歴史を二度と繰り返さないように、未来への教訓を伝えることが最後の仕事だ」と言っていたという。