ひとりの被爆者との出会い

原爆死没者慰霊碑。平和記念公園の象徴的な碑
原爆死没者慰霊碑。平和記念公園の象徴的な碑

そんな10代を送った長峰さんは大学卒業後、TBSにアナウンサーとして就職。仕事をする中でも、多くの人が戦争について教えてくれたという。

長峰「特に永六輔さんです。『永六輔 その新世界』というラジオ番組で、私はアシスタントとして5年間ご一緒したのですが、永さんは12歳で終戦を迎えられた。

『疎開から帰ってきたら友達が亡くなって、家が焼けていた』と泣きながら話してくれました。そういう永さんだからでしょうね、ゲストにも戦争体験者が多く、皆さんの『戦争をしてはいけない』というメッセージ、言葉がどんどん心に積もっていきました」

そして約4年前。60歳定年を前に「これからどう生きていこうか」と考えた長峰さん。戦争に関する多くのメッセージをもらってきた自分は、もらいっ放しでいいのか。いや、次の世代に伝えなきゃいけない。と思ったものの、戦争について断片的な知識しか持たない自分。

今のままでは伝えられない。系統立てて学ぶ方法はないだろうかと調べるうちに、広島市の伝承事業を知った。長峰さんは定年退職の1年前に申込み、アナウンサーの仕事を続けながら、夏休みなど休日を利用して広島にまず1年目の研修に通ったという。

長峰「子どもの頃からの戦争に対する疑問、怒りが私の中にあって、広島の制度に辿り着いたんですね。実際に広島に行って、恥ずかしいことですが、それまで知識の浅かった核兵器について一から学ぶことができました」

清水弘士さんの言葉と思いを伝承する

原爆の子の像。折り鶴を掲げる女の子は、2歳で被爆し10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さん。その死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰める像をつくろうという運動が起き、全国からの募金で完成した
原爆の子の像。折り鶴を掲げる女の子は、2歳で被爆し10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さん。その死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰める像をつくろうという運動が起き、全国からの募金で完成した

広島市の研修では、被爆の実相、核兵器を巡る世界情勢、広島の歴史、戦時下の暮らしについての講義を受けた。その最後に、9人の被爆者の証言を聞く時間が設けられていた。証言を聞いた上で、どの方の被爆体験を伝承したいかという希望を出し、決まれば次の1年間は一人の被爆者から学ぶ研修期間となる。

証言を聞く中でとりわけ感銘を受けたのは、清水弘士さんの話だった。

清水さんは1942年生まれ。原爆投下の時は3歳で、広島市の爆心地から1.6キロの地点にある、吉島町という場所で暮らしていた。両親と10歳上の兄の4人家族だった。長峰さんを含む、その日の50人ほどの受講者に清水さんは言った。

「被爆体験の伝承というのは、8月6日の体験を語るだけではありません」

清水さんは、1時間の話の中で、核兵器が一生、人を苦しめることや戦争の背景についても詳しく話してくれたという。

長峰「清水さんは『日本が侵略によって戦争を始めたことや、広島が軍都だったこと、その歴史を忘れてはいけない』と言いました。『国はどうやって国民を戦争に巻き込んでいったのか、大人たちはなぜ戦争に反対できなかったのか。歴史を知って学んでください。』と。

そして『同じことが繰り返されようとしていないか、今の世の中を見極める目を持って伝えてください。戦争で犠牲になるのはあなたたちなのですから』と。

自分の味わった苦しみを、次の世代には味わわせたくないという強い思い。普通の市民や弱い立場の人を巻き込んでいった戦争、権力者への怒りが根底に流れているお話に深く感銘を受けて、ぜひ清水さんの伝承をしたいと熱望し、結果的に受け入れてもらいました」