緑の大地計画
中村は、2002年春、次々と涸れていく井戸の代わりに用水路を築き、クナール川の水を引き入れて荒地を潤す構想を「緑の大地計画」にまとめた。
……2003年(平成15年)3月19日、用水路建設の起工式がおこなわれた。
中村は、作業服の上下に平たいパコール帽を被り、式に臨んだ。村の長老や地域の顔役を前に挨拶に立つ。クナール川から村まで13キロメートルの用水路を引いて600ヘクタールを灌漑し、5万人以上の生活を成り立たせる。用水路は2、3年で完成させると豪語し、こう締めくくった。
「これが我々のジハード(聖戦)であります」(ペシャワール会報75号・2003年4月16日)
こうして「緑の大地計画」は始動したが、中村の決意とは裏腹に、まわりに水の気配はまったくない。干からびた荒野と岩山が見えるばかりで、水路の設計図もできていなかった。
「……村人たちのなかで、水路ができると信じていた人はいなかったと思います。もちろん僕もまったく想像できませんでした」と中山(※博喜 元日本人ワーカー、現・京都芸術大学教授。以下、※は筆者注)は追想する。
「中村先生は、寝る間も惜しんで河川工学や、流体力学、数学などの本を読み漁り、勉強をしていました。素人の僕らにはチンプンカンプン。雲をつかむような話でした。世間には、中村先生が独りで計画をまとめて、ダダーッとドラマチックに用水路をつくったように伝わっていますが、そうではありません。大変な紆余曲折がありました。用水路の建設で力を発揮したのが鈴木学くんです。日本人スタッフで土木工学の知識があったのは鈴木くんだけでした。中村先生は、鈴木くんをとても信頼していました」













