原子力空母エンタープライズ入港
1960年代後半、社会は騒然としていた。
世界中で若者の反乱が起きていた。
共通するのは、「ベトナム戦争」に反対する大きなうねりだった。
アメリカは、東南アジアの共産化を防ぐという大義を掲げて、北ベトナム(ベトナム民主共和国)と対峙する南ベトナム(ベトナム共和国)の内戦に介入した。ゲリラが潜む密林を丸裸にしようと猛毒のダイオキシンを含む枯葉剤を撒き、第二次大戦時に米軍が日本に投下した爆弾の50倍にあたる790万トンもの鋼鉄の雨を降らせる。
全米で若者たちがデモをおこない、反戦を訴え、徴兵を拒否した。
そして、日本でもベトナム戦争に加担する政府への抗議と反戦運動がくり広げられる。日本はアメリカと日米安全保障条約を結び、基地を提供している。本土復帰前の沖縄の米軍基地からは戦略爆撃機のB-52が飛び立ち、ベトナムを空爆していた。
1968年(昭和43年)1月18日、中村の母・秀子から若松の玉井行人(※中村哲の従弟現、J3ギラヴァンツ北九州会長。以下、※は筆者注)の家に電話がかかってきた。行人は、そのときのことを鮮明に覚えている。電話を受けたのは行人の母・貞子だった。
「うちの哲が、そっちに行っとらんかねぇ。もう何日も帰ってこんとよ」
と秀子は貞子に尋ねた。
「ええーっ。来とらんですよ」と貞子は答えた。
「おかしいなぁ」と秀子は電話を切った。その夜、もう一度、電話がかかってきた。
行人は、秀子と母のやりとりをこう語る。
「テレビのニュースば見よったら、哲が映っとった、と秀子さんはうちのお袋に言ったんです。あの日、長崎の佐世保で、全国から集まった学生たちが、アメリカの原子力空母エンタープライズが入港するのを阻止しようとデモ闘争をしていました。そのデモ隊のなかに哲さんがいてテレビ画面に映ったんです。電話を切った後、お袋は、哲ちゃんもなぁ、心配ばかけて……。中村家の男ん人は、秀子さんの寿命ば縮めよる、と嘆いていました」
18日には、野党の共産党、社会党、公明党までも佐世保市内で寄港反対の抗議集会を開いた。中村の母の秀子が心配して玉井家に電話をかけてきたのは、このころだった。
中村と宮﨑(※信義 中村哲の親友、現・久山療育園重症児者医療療育センター理事長)も、佐世保のデモの渦に巻き込まれた。宮﨑が記憶を呼び覚ます。
「佐世保橋の前で、わたしたちもデモをしたんです。機動隊が押し寄せてきて、ガス弾を撃つでしょ。バーン、バーンと破裂して、催涙剤が飛び散る。痛くて目が開けられない。咳も出ます。飛び散った化学薬品が直接、皮膚にかかったら火傷をするんですよ。われわれはノンセクトなので『反帝国主義』とか『日帝打倒!』なんて書いたセクトの旗は持たないで、ただひたすらベトナム戦争反対を叫んでいました」
1月19日、エンタープライズは入港予定日から一日遅れて、佐世保港に7万5700トンの巨体を現した。海の要塞は、学生と機動隊の衝突などどこ吹く風と港に錨を下ろす。長崎県警の調べでは、3日間の騒乱で逮捕者は69人、そのうち学生64人、右翼が5人だった。社会を震撼させた原子力空母は、23日に佐世保を出港し、日本海へ出動した。













