スイッチを切りたい
――いま自然環境の変化がすさまじく、同じ場所で同じ品質の原料がとれなくなったり、トレーサビリティ的にNGになったりしたものもあるかと思います。歴史のあるお仕事に対して、藤本さんはどう考えていらっしゃいますか。
藤本 以前は使えていたけれど今はダメなものは、いくらでもあります。たとえばムスク(麝香)がそう。香りの世界ではよくあることなので、作れなくなった商品はすっぱり諦めて、新しいものを作ればいいと私は考えています。
――伝統を守りつつ刷新していくわけですね。その際、小説にも書かれていましたが、レシピの伝承はやはり一子相伝、企業秘密ですか。
藤本 一子相伝と決まってはいませんが、弊社の場合は一世代に一人の調合師なので僕の師匠は父親世代です。お香の製造方法自体は、中国から伝わってきたものですから基本的にはどこも同じです。ただ香りの配合のレシピは企業にとっても要なので、社内でも限られた人しかアクセスできません。しかも調合師以外が見てもわからない暗号で書かれてます。
千早 暗号で! 松栄堂には現在おふたりの調合師がいらっしゃるそうですが、同じ電車で移動しないと聞きました。
藤本 はい、同じ飛行機にも乗らない。
――いっぺんに死んでしまったら会社存続の危機なんですね……。
千早 ライバル会社に狙われるとか、ないんでしょうか……?
藤本 さすがに僕も命を狙われたことはないですけど(笑)、たしかに調合師がいなくなれば、新しい香りは作れなくなりますね。
千早 後継者は鼻のよさで選ぶんですか。それとも、好奇心の強さとか。
藤本 私自身が鼻ではなく原料調達の戦力で採用されたので、体力かな。私は松栄堂に入る前に、JICA海外協力隊でザンビアにいたんです。千早さんとそこもご縁があります。
千早 私もザンビア育ちなので。以前藤本さんがアフリカの香りの商品を作って送ってくれたことがありました。たしかに嗅いだら、ザンビアの赤土とか巨大な夕陽が思い浮かびました。
――話が小説から離れていますが、せっかくなので藤本さんの香りを作る際のルーティンを教えていただけますか?
藤本 まず裸足になります。
千早 取材で作業机のあたりを見せていただいたときも、スリッパが転がっていましたね。そのとき、冬場でも裸足と聞きました。
藤本 社員も知らない事実です(笑)。というのは、頭のスイッチを切り替える必要があるから。朔さんじゃないけれど、香りのことばかり考えていると頭を使いますし疲れもします。長くても半日ぐらいに制限しようと決めていて。その中でも研究室で香りを作るモードに切り替えたいとき、最初は瞑想をしていたんですが、裸足になると意外といけると発見したので今はそうしています。
千早 嗅覚のスイッチは頭にあるとおっしゃいますよね。
藤本 そうですね。
千早 そこがプロだなと思います。私は鼻がいいほうですが、スイッチがないぶんどこでも匂いが入ってきて、ううう、となってます。スイッチを切りたい、でも切れない。お会いした調香師さんもみんな切り方を知っていて、すごいですよ。
藤本 本当にスイッチを切っているときは、妻が「ちょっと焦げくさいね」というのを聞いて初めて気が付くぐらい鈍感です。
――逆に、嗅覚の精度を高める訓練はありますか?
藤本 いろいろやり方がありますが、まずはひたすら鼻を使う。たとえばカレーを食べたとき、これはカレーだと鼻で意識するのを繰り返します。嗅覚は意識しないと忘れられちゃうものなので……。
千早 私も「香り」シリーズを書く前は匂いの言語化の練習をします。感じたことを言語化するのを癖づける。じゃないとこの世界には入ってこられないです。
――小説は基本的に紙の上の文字でしかなく、絶対に本自体は香りません。でも読者は、読むことで脳内に香りを覚えたりする。考えれば不思議なことです。私たちの共感能力の表れですし、その共感力を引き出す作家の工夫もきっとありますよね。
千早 他人にはなれないので、他人がどう感じるかは不確実です。私はたぶん一般の人より嗅覚が鋭く、言語を扱ってきたから表現の幅がある。だからこそ伝わるかどうか、何度も表現を練り直します。たとえば取材メモを何か月後かに読み直し、自分で脳内に香りを再現できなければ使わないとか。編集者や夫にいろいろ聞いたりもします。逆に、この言葉から人はこういうものを連想するというセオリーがあるので、個人的にはあまり使いたくない月並みな表現を、あえてちょっとだけ入れる手も使います。
――読者を置いていかないために解像度をさげるというか、紋切型の力を借りるんですね。
千早 そうしないと、主人公がめちゃくちゃ独特で変なやつになっちゃうんですよ。取材のメモに「海の底のバナナ」とあり、これはたしか銀座の聞香体験で嗅いだ沈香の香りを表現したんですが、さすがにそれは使わずに「潮っぽい」と書くとか。香りの表現にはとても気を使いました。














