2009年6月26日
マイケルの訃報が日本に届いたのは、2009年6月26日金曜日の朝のことだ。たいていの資料には「2009年6月25日」と記されているが、それはあくまでも彼が暮らした「アメリカ合衆国」の日時。
あの朝に始まり、そこから数カ月続いたぐるぐると回転する洞窟の中へ落下していくような衝撃は、今も鮮明に覚えている。思い返せば、17年も前のことだ。
当時、30代半ばだった僕は、TBSラジオでその春に始まった平日午後の帯番組『小島慶子 キラ☆キラ』に出演し、水曜日の音楽コラムを毎週担当していた。
自分の個性である「80年代音楽フリーク」を強調する意味も込めて、ロンドン「O2アリーナ」で行われる12年ぶりの大規模公演「THIS IS IT」を発表し、完全復活の狼煙のろしをあげていたマイケル・ジャクソンの動向を逐一しつこいほど熱くレポートしていた。
訃報が届いた直後、TBSラジオから「今日の『キラ☆キラ』は緊急追悼特番にするので、急遽来てほしい」と連絡が。スタジオのある赤坂へと運転して向かう車の中で、カーラジオから流れる湯川れい子さんが選曲した「ヒューマン・ネイチャー」を聴いた。
もう彼がこの世にいない、その事実に打ちひしがれた僕は、車を路肩に停めて号泣した。空港や、出待ちで「ファンとして会う」ことはしたくなかった。あくまでも、ひとりの日本人ミュージシャンとして、「友人」として出会いたい、とずっと願っていた。
これは歴史的な事実と言っていいので、風化しないように記しておきたい。
実はそれ以前、十数年の長きにわたり、マイケルの音楽やパフォーマンスの素晴らしさ、人間性は、様々な泥に塗まみれたゴシップや「スキャンダル」、結果「無罪(すべての罪状で無罪評決)」に終わった裁判などに覆い尽くされ、ラジオやメディアで彼の楽曲が放送禁止とされた時期もあるほどに虐げられていた。
実際に、僕がその日向かった『キラ☆キラ』でも、アメリカに住む町山智浩さんは、その時点ではまだ、日本と世界の空気の変化を異なる角度から見ていたのだろう。マイケルの肌の色の変化について生電話でジョークにして茶化した。
その上で、彼は「マイケルには膨大な借金があるから、親族含めて皆、責任を負わされることを恐れて逃げ出している」といった趣旨の発言をした。
僕は当時まだ彼と直接の面識はなかったが、「マイケルに借金があったとしても、この後、彼の遺産はどんどん富を生み出していくはず。その見立ては違う」と反論した。どちらが正しかったかは、今に至る歴史が証明している。
個人攻撃をしたいわけではない。17年前のラジオやテレビでは彼が白斑症の患者であることを知らない人々、裁判について情報を精査していないメディアが、スーパースター「マイケル・ジャクソン」に関しては、面白おかしく蔑むことが日常的に許されてしまう、嫌な空気が蔓まん延えんしていた。
例を挙げるとキリがない。僕が呼ばれて収録したマイケル特集のテレビ番組が、上層部の判断で急遽放送されなかったことも実際にあった。
そんな状況が、彼の死によって一瞬で急変したのだ。













