「研究不正」は、いつか書かなければいけない題材だった
──先ごろ文庫化された『生者のポエトリー』ではポエトリー・リーディング、近刊の『汽水域』ではジャーナリズムと、岩井さんはこれまでさまざまな題材を取り上げてきました。『風車と巨人』では複数の題材が扱われていますが、出発点は何だったのでしょうか?
ドキュメンタリーです。自分が書いてきたものを振り返って、うそと本当、虚実の皮膜みたいなものがテーマとして一つあるなと気付いたんですね。次はそのテーマと自覚的に向き合ってみようと思った時に、編集者から唐突に「岩井さん、何か好きなものあります?」と聞かれたんです。「小説と、あとはドキュメンタリーですかね。テレビのドキュメンタリーはよく観ます」と答えながら、そっか、ドキュメンタリーって書きたいテーマにぴったりかもしれない、と。ドキュメンタリーは、ドラマとは違って脚本があるわけではないし、被写体にこうしてくれとディレクターが演技指導することはない、はず。画面に映っていることは全て事実です、というふうに一応はなっている。でも、撮った素材を編集して差し出す以上、作り手の意思は介在しているわけじゃないですか。虚と実という視点から改めて考えてみると、ものすごく興味深いジャンルだなと思ったんです。
──本作を読んで、小説はドキュメンタリーとは真逆のベクトルにあるのかなと感じました。
小説は「全部うそです」という前提があるから逆に何でも書ける、めちゃくちゃ大きな器だなと思います。例えばドキュメンタリー、ノンフィクションの場合は、Aさんの話はAさんの話としてしか描けない。でも、この小説に出てくる登場人物に対しては、現実に起きた事件であるとか実在の人物が、読者によっていろいろ想起されると思うんです。
──Aさんの人生のある側面を強調するために、Bさんのエピソードをくっつけるというのはノンフィクションではタブーですもんね。でも、小説ならば自由にできる。
そうですね。誰の話でもないからこそ、誰の話にもできる。それが、小説が持つ力なのかなと感じています。
──主人公をドキュメンタリー作家にするとして、その人に何を追わせることにするか。取材対象はどのように選定されましたか。
虚と実というテーマから、経歴偽装や食品偽装など、事実とは異なるのにあたかも本当であるかのように見せる、という社会問題に最初は目が向きました。加えて、いつかは書かなければいけないとずっと温めていた題材が一つあったんですよね。それを書くタイミングはここ以外にないんじゃないかな、と。研究不正です。僕はデビューする数年前まで、生物系の研究者をやっていたんです。
──岩井さんは北海道大学農学部を卒業後、北海道大学大学院農学院修士課程を修了。第九回(二〇一八年度)野性時代フロンティア文学賞受賞のデビュー作『永遠についての証明』は、数学の研究者のお話でしたね。
これはあらすじの時点でバレバレなので言ってしまいますが、小保方晴子さんの事件(二〇一四年にメディアを席巻した、「STAP細胞」を巡る研究不正事件)がこの小説の根底に一つあります。世間的には大うそをついてみんなを騙してやったぜ、みたいな事件であると思われているかもしれないんですが、小保方さんは本気でSTAP細胞があると思っていたんじゃないかって気がするんですよ。完全なる無からSTAP細胞を思いついたとは僕はどうしても思えなくて。実験中に何かあるにはあったんじゃないか、つまり、一回だけ成功しちゃった、ということが起こったような気がしてしまった。その一回で、STAP細胞は存在するんだというマインドになってしまい、他の実験で出た正しい結果を「これは間違っている」と捉えるようになってしまった。
僕の想像ではありますが、似たようなことは研究に限らず、人間関係にも起こり得ると思うんですね。例えば好きな人のことって、イヤな面があまり見えなくなっちゃったりするじゃないですか。自分の見たいものを見てしまう、事実をねじ曲げて解釈をしてしまうということは、全然特殊なことではない。陰謀論もそうですけど、客観的な反証が出た時に、また新しいストーリーを組み立てて反論するということはあります。研究不正を扱いながら、人間はどうして、どうやってうそをつくのかという問題や構造を、小説を通して自分なりに追究してみたいと思ったんです。
自然科学の中でも生物系は虚実の境目が曖昧なんです
──主人公の三田紗矢子は、東京の制作会社に勤務する二九歳のディレクターです。新卒で入社して以来、テレビのドキュメンタリーや情報番組の制作を手掛けてきました。ある日、民放キー局の人間密着型ドキュメンタリー番組「十一時の肖像」に出していた三田の企画書が通った、と社長から報告を受けます。取材対象者は、老化研究の第一人者であり城北大の若きエース嘉山宗弘教授。老化を止める「不老因子」を発見した、知られざる天才研究者です。冒頭で描かれるディレクターの日常や取材の段取りに関する記述から、リアリティが匂い立っています。
制作会社の方やフリーの方、某有名ドキュメンタリー番組でディレクターをやっている方にもがっつり取材させていただきました。例えば「実景」と「雑感」という言葉は、取材の中で出合った言葉です。映像の文脈を伝えるために使われる素材が雑感で、番組なり作品の核になる本質的な素材が実景。ドキュメンタリーの世界では、「雑感ばっかり撮ってないで実景を撮れ」と言われることがあるそうです。
──三田は嘉山教授に取材した初日の撮影について、「なめらかすぎる」と評価しますよね。取材しているというよりは取材させられている、見せたい部分しか見せてもらえない感触だった、と。この「なめらかすぎる」というワードは?
それは自分の中から出てきた言葉でした。連載をしながら取材もしていたので、ドキュメンタリーを生業とされている方に連載を途中まで読んでいただいて「どうでしたか?」と伺ったりしたんです。「なめらかすぎてヘンだな、イヤだな」という感じ方は確かにありますとおっしゃっていただいて、勇気づけられた記憶があります。小説家は取材をする仕事でもあるので、感覚として通ずるものがあるのかもしれないですね。
──その後も三田は嘉山教授への取材を続けていきますが、プライベートの話は厳禁で人間性の本質を摑ませない、鵺的な人物なんですよね。そして過去に研究不正疑惑が取り沙汰されていることが明らかになり、どんどんきな臭さが増していきます。ただ……医学生物学論文の七〇%以上は、再現不可能なんだそうですね。
『ネイチャー』という有名な科学雑誌に載った記事ですね。雑誌に論文が載るということは、必ずしも事実だと認められるということではない。あくまで論文の作法にのっとって書いた論文が掲載されます、という以上でも以下でもないんです。再現できない背景はいろいろあるんですよ。再現実験で論文にあるものと同じ細胞を使ったとしても、生物なので一つとして完璧に同じ細胞は存在しない。論文で使った細胞ではできたけれども、別の科学者が別の実験室でやったらできなかった、ということは往々にしてあるんです。自然科学と呼ばれる学問分野の中でも特に、生物系の実験は結果が安定しない。つまり虚実の境目が曖昧になってしまうんです。
──三田は取材で嘉山の関係者に話を聞いていくうちに、ちょっとずつ違和感が重なっていく。虚実がひっくり返る感触が積み重なっていき、やがて大きな疑惑に結びつくプロセスは説得力がありました。
嘉山は常に自分を〝ちょい盛り〟しているんですよね。でも、僕らも日常の中でちょい盛りするじゃないですか。嘉山は自分たちとは全然違う生き物で、モンスターなのかというと、そうとも言い切れない。僕らも嘉山的なものを絶対持っている。自分にもちょっと心当たりがあるから余計、うとましい存在に感じられるんだと思うんです。
──三田は当初、嘉山教授を信じて、疑惑を払うために立ち回っていました。しかし途中から逆に疑惑を立証するために、自分の「作品」を作るために動き始める。このギアチェンジが非常にスリリングでした。
三田は、出発点としてはわりと普通の感覚を持った、普通の人なんです。そういう人が、どんなプロセスを経てモンスターっぽくなっていくのか。感情ラインを整えていく作業には時間をかけました。例えば、三田が高校時代に経験した「映像の力」に関するエピソードは、単行本化時に、連載時とはガラッと中身を変えたんです。今の三田がこうなったんだとしたら、過去にこんなことがあったはずだと。言ってしまえば過去を現在と最もフィットする形に改変しました。これも、ノンフィクションでは絶対できないことですよね。この作業を三田と、それから嘉山にも施したことで、自分なりに納得のいく物語に仕上がりました。
──ちなみに、主人公の三田は女性ですよね。取材対象が権威的な男性である場合、取材者は女性の方がいいのではないかという判断があったのでしょうか。
明確な判断基準があったわけではないんですが、今になって思うのは、男性が主人公だと、出世欲的なところに物語が収束してしまいそうだという危惧があったのかもしれないですね。仕事で成果を出すため、会社に認めてもらうために頑張っているんだという視線を、僕自身もそうですし、読者も持ってしまうかもしれない。そうではない、もっと根源的な話を書くうえでは、女性に動いてもらう方がよかったんだと思います。














