──もともと、今回の新書は哲学の知恵をもとにして「対話の教科書」をつくりたい、という数年前のアイデアが原型でした。当時は「論破」が流行し、勢いよく相手を言い負かすのがカッコいい、という空気が広まっていたことを覚えています。それから数年を経て、対話をめぐる状況はどのように変わっていると思いますか?
岩内 マクロな視点で見ると、国際関係ではロシアや中国やアメリカといった大国が、いまや明確に暴力によるパワーゲームに入っています。でも、ある意味でこれは対話について改めて考えるチャンスかな、とも思うんです。
──どういうことですか?
岩内 パワーゲームが支配的になってきた時に、もう対抗手段がなくなってくるんですよ。複数の人間が、あるいは複数の国家が何かを決めようとすると、究極的には手段は「殴り合い」か「話し合い」しかありません。
殴り合い(暴力)がはびこる状況を見せられて、これに対抗しようという時に、何か他の選択肢はあるだろうか。また全員でパワーゲームの中に入っていって、力と力による終わりなき闘争状態に戻るしかないんだろうか、という転換点に私たちは立たされている。
そんな中で、より多くの人々が対話に希望を持つことができれば、状況は変わります。そう簡単に合意形成やルールメイキングを成し遂げることはできないけれども、その困難さも知ったうえで、対話を継続していくということがパワーゲームの発現を抑止するためのひとつの重要な道になるんだ、いや、それ以外に手はないんだと。そのことを改めて冷静に考えるべき大事な場面にさしかかっているのかなと感じています。理想論だ、甘っちょろいと言われてしまうかもしれませんが……。
稲垣 私、このあいだ留学生たちの日本語クラスで本質観取をやったんですが、大変でした。そのクラスには中国の人も香港の人も台湾の人もいるんですよ。テーマを「平和とは何か」にして、「あなたの国ではどういう状態が平和ですか」ということを議論してもらったら、やっぱりシビアな空気になって。結構コンフリクト(摩擦)も起こりました。互いに緊張関係にある国の出身者の学生同士が、お互いの国を悪く言い合ったりとか。
留学生のクラスって、本当にピリピリしています。さまざまな国から来た人が集まっているので偏見や差別もあるし、あんなヤツとは口も利きたくないと裏で思っている人たちもいる。でも、そういう場でこそ対話をすることに意味があると思っているんです。
苫野 すごいな……。本当に最前線の現場ですよね。
稲垣 本質観取と日本語教育の現場は相性が良い、と言った裏側にはそういった背景もあります。文字通り、一触即発の世界の中であえて対話の場を持つことにすごく意味があると考えていて。だから私は、もっときわどい世界で本質観取をどんどんやっていきたいなと思っています。
苫野 ちなみに「平和」の本質観取はどんな感じになったんですか?
稲垣 やっぱり「共存」がキーワードになりました。ただ、その前の段階で「生命の安全が保障されていることが一番大事」と。生命の安全が保障されており、対話によって共存できる世界。それが平和だ、という感じになりました。
苫野 素晴らしい。そこまで対話ができたんだ。本当に可能性を感じますね。















