江夏が垣間見せたプライド
江夏は、1973年夏の甲子園、雨中での作新対銚子商業戦をテレビで観戦している。世間が江川江川とうるさいけど、一体どんなピッチャーやろうかと思い、上りの日だっただけにテレビ観戦した。
噂に違わぬダイナミックなフォームから要所要所で威力のある球を投げるなぁと思ったという。その日以来、江川という名が頭の片隅に刻まれた。
怪我等によってモデルチャンジをするときの心境を聞いたときに、江川は「僕は4年目で肩を痛めたことによって、コントロールをより身につけようとしました。生きる道を考えると、いろんな球種が投げられない分、コントロールとバッターの性格を知るという方向に特化していくしかなかった」と語った。
それに対して江夏は、己の覚悟の度合いを示すかのようにゆっくりと口を開く。
「18年やった人間と、半分の9年しかやってない人間の差は出てるよね。江川くんには失礼だけど、少なくとも自分は江川くんよりもピッチングに苦しんだ人間だから。肩が痛い、肘が痛い、嫌というほど味わった。それでも投げたもん。
それこそ脂汗を流して投げて投げて投げ込んで、最終的にリリーフでなんとか飯が食えるようになった。確かに肩が痛いとき、肘が痛いときにボールを投げるのは辛いよ。でも、それを俺は乗り越えたから。顔を洗えない、箸が持てない、そんなときでもボールだけは持てるんだから」
このときは、“くん”付けだった。仕掛けるというより、本心を見せたかった部分も強かったのだろう。と同時に、江川にもっと現役に執着して欲しかった、お前はそれだけの才能を持っていたんだという怒りの念も含まれていたに違いない。
無死球試合は、江夏(21試合)より江川(23試合)のほうが多かった点についても尋ねると、江夏はここぞとばかり間髪入れずに口を開く。
「場合によってはファアボールを出さなければいけないときもあるから、負け惜しみじゃないけど、それがすべてではない」
現役時代、自分の後ろから猛追してきた後輩に対し、江夏はプライドを垣間見せた。それは他の後輩には絶対に見せない姿であり、江川だから見せたのだ。あえてバチバチに勝負を挑んでいる気がした。
続けて、アメリカの野球に触れてどう思ったのかの問いでも江夏が「今ほど日本の野球が認められてない時代だからジャパニーズ、ジャパニーズって嫌な思いもしたし、勉強になったけどまた行きたいとは思わない」と答えたのに対し、江川は「アラスカリーグでメジャーの卵たちと一緒にプレーしてどういうレベルでどういうふうに考えてるかって全部わかったので、僕はいい経験になりましたね」と、ここぞとばかり饒舌に語った。
一見両者ともアメリカに行ったことはプラスだという答えだが、江夏はアメリカに行ったことへの意味を無理やり見出したのに対し、江川はアメリカに行ったこと自体に多大な価値を得たことを吐露したのだった。際どいボールの出し入れのように互いに譲らない姿勢が、見ていてヒリヒリシした。













