被災地から都内の火葬場までの遺体搬送

まず行ったのは遺体を搬送する運送会社の確保である。東京博善は廣済堂に属しており、かつてグループ会社だった日本運輸機構(現・凌雲物流)の田口典彦社長に浅岡社長が直談判した。「被災地のご遺体の搬送にお力を貸していただきたい」。田口もまた支援への思いがあり快諾した。

ただ搬送手段は確保しても、遺体をそのままトラックに積み込むことはできない。そこで、大型トラックを調達して多くの遺体を運搬できる仕様に造り替えねばならなかった。その結果、4tロングのトラックなら24体、普通型なら18体の遺体を運ぶことが可能になった。

4tロング1台の改修と陸運局への届け出が完了し、宮城県に出発したのが4月11日、続いて2日後に普通型2台が出発した。

引取先は石巻市の遺体安置所となっている旧石巻青果市場。3台のトラックで1日最大60体の遺体が運ばれ、四ツ木斎場の敷地内にあるお花茶屋会館に安置された。棺は内部で水を含み、砂が混じって相当な重量があった。底抜けや液体漏れの恐れがあるため、積み下ろしや運搬は慎重に行われた。

「ご遺体は収容された時と同じく裸です。泥は落としていますが清拭までには至らず、白布がかけられていました。ヘドロ状の海水を飲んでおられますので、炉床と呼ばれる炉の下の方からお骨と一緒にたくさん砂が出てくる状態でした。ご遺体は傷み、激しい臭気もありましたが、燃焼時に煙や臭気を取り除く装置やノウハウを持っていたので、それらの問題が出ないのは幸いでした」(川田)

遺体の運送は4月24日まで行われ、翌25日までに579体が火葬された。拾骨は現地の市町村職員が立ち会って遺骨は桐箱に納められ、6個単位で江戸藍染めの風呂敷に包んで安置。

4月27日、トラックに遺骨を積み込み、浅岡が伴走車に乗り込んで東北に向かった。同日夕方、2カ所の安置所に432柱はしら(遺骨の単位)、翌28日の2カ所の安置所に222柱が返骨された。

東日本大震災の石碑(PhotoAC)
東日本大震災の石碑(PhotoAC)
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文/伊藤博敏

『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)
伊藤博俊
『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)
2026年1月15日
1,980円(税込)
320ページ
ISBN: 978-4093965583

語られざる「火葬」のタブーに迫る渾身作

日本中が将来の右肩上がりの成長を信じていた昭和の時代、葬儀は、参列者の数を競うような壮大なスタイルで行われていた。しかしバブル経済の崩壊、そしてそこから続く「失われた30年」を経て、人の尊厳を守り、生きてきた証を残すはずの弔いは、急速に簡素化が進んでいる。

《そんな傾向に抗する気持ちが、私は年々、強くなった。人間だけが行う「葬送」という文化が失われていいのか。皆で弔い両親や先祖に畏敬の念を持って接する場所(墓)を確保する習俗は、後世に残すべきではないのか――》(「はじめに」より)

筆者の問いは、ここから始まる。

本書では日本人が「死」と「弔い」にどう向き合ってきたのか、その歴史と変遷を振り返る。さらに、そのダイナミックな時代の動きの中で暗躍した人々の生き様をたどる。

古代から続く「ケガレ」の思想と、「キヨメ」を担った人々。
「肉」と「火葬」という二大タブーを逆手に取って富と権力を手にした、明治の政商。
戦後の混乱と復興を象徴する、昭和の怪商。
争奪戦を制した、中国人経営者――

圧倒的な取材力を持つ筆者が、語られざる“タブー”に迫る。

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