「普通の歌手とは違う」ことを知らしめた『夜へ急ぐ人』
1971年の中津川フォーク・ジャンボリーに、飛び入りで出演した友川は秋田出身のシンガーで、『上京の状況』『生きていると言ってみろ』の2枚のシングル盤を出した後に、ようやくファースト・アルバム『やっと一枚目』を1975年にリリースしていた。
ちあきのプロデューサーだった郷鍈治は、翌日の朝から放送局に連絡を取って、その日のうちに事務所へ友川を招いた。そして、ちあきとともに楽曲を書き下ろしで提供してほしいと依頼した。
まだ他人に楽曲を提供したことがなかった友川は、どんな曲を書けばいいのかという手掛かりを求めて、新宿のライブハウス「ルイード」で行われる、ちあきなおみのライブに足を運ぶことにした。
そこでジャニス・ジョプリンの曲を聴いて、友川は圧倒されて泣いてしまったという。
「もう鳥肌がたつほど感動しました。私も高校時代からジャニスが大好きでしたから、ちあきさんのジャニスを唄うのを見た時、『あー、タダの狂気じゃないな』って感じました」
ジャニス・ジョプリンとちあきなおみに共通するもの。それは人の心の奥に隠されている狂気だったのかもしれない。
そして友川は、『生きてるって言ってみろ』もまた、自分自身の中にある狂気と怒りから生まれた作品であることに気づいた。
それが評価されて楽曲を頼まれた自分に求められているのは、「ジャニスの曲を歌っている時に見せた“狂気を引き出す曲”を書くことだ」と、友川はそう感じ取ったのだ。
こうして生まれた新曲『夜へ急ぐ人』は、1977年の9月1日にシングルとしてリリースされた。そしてその狂気を多くの人が目の当たりにしたのは、その年の大晦日「第28回NHK紅白歌合戦」でのことだった。
演歌の『酒場川』をしっとりと歌っていた前年とは打って変わって、8年連続での出場となったこの日のちあきは、黒づくめの衣装で髪を振り乱して、「おいで、おいで」とカメラに向けて、挑発的に手招きをするパフォーマンスを披露した。
ちあきなおみの狂気をはらんだ絶唱は、お祭りムードで和やかだった会場の空気を一変させた。その模様は日本中の茶の間にも等しく伝わった。
「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」
歌が終わるや否や、白組司会のNHKアナウンサー・山川静夫の口からこぼれたのは、台本に書いていない本音のコメントだった。その軽口によって会場には笑いが起こったので、何事もなかったようにいつも通りの紅白が進んでいった。

だが、そのパフォーマンスが深く心に刻まれた人も多かった。はからずもその夜の熱唱で、ちあきなおみが明らかにしたのは、「普通の歌手とは違う」ということだった。
翌年、プロデューサーでもあった俳優の郷鍈治と結婚すると、ちあきなおみは芸能活動をしばらく休業することにした。当然のように紅白の舞台からも降りて、それから10年間は出場する機会がなくなった。
ちあきなおみが歌手として本格的に復帰を果たしたのは1988年。その時はシャンソンやジャズ、ポルトガルのファド、日本のスタンダード、そして自分のオリジナル曲と、心から歌いたい歌をストイックに追求していく、唯一無二のシンガーとなって戻って来た。
1992年、最愛の夫と死別。それ以来、ちあきなおみは引退宣言もなく、表舞台から姿を消した。30年以上経った今でも、最高の歌い手として再評価は高まる一方だ。
文/TAP the POP
参考文献:
『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』友川カズキ著(白水社)
『ちあきなおみ 喝采、蘇る。』石田伸也著(徳間書店)
『団塊パンチ (3) 』(飛鳥新社)
『紅白歌合戦と日本人』太田省一著(筑摩書房)