消えた「有事の円買い」

唐鎌大輔(以下、唐鎌) リーマンショック以前は「危機的な状況になると円が買われる」という動きが一般的でしたが、最近ではそうした「有事の円買い」ないし「安全資産としての円買い」がほとんど見られなくなりました。「リパトリ(本国回帰)」が消えた、という解説もよく見られます。河野さんは、この点をどうお考えでしょうか。

河野龍太郎(以下、河野) かつては有事の際には、たしかに円高傾向が見られました。もちろん「有事」といえばドル買いが基本でしょうが、欧米以外の先進国で、これほど厚みのある金融市場を持つのは日本だけだったから、欧米で何か起こると円も買われていたのだと思います。

しかし、2018〜2019年にかけて米中対立が起こり、新冷戦が始まりました。台湾海峡で有事が起きると、日本は当事国になります。そのため、「有事の円買い」がなくなったと解釈しています。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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また、昔の日本では、先行きが不透明になると、企業が海外から投資資金を引き揚げることで円が買われ、円高になることがありました。しかし、その状況もすっかり変わってしまいました。

特に、日本の銀行が企業を手厚く支援するメインバンク制が崩壊した後、日本企業は長期雇用を維持するため、不況の際、手元にできるだけ多くの資金を確保しようとする傾向が強まった。かつては、こうした資金の移動が不況期の円高をもたらしていました。

しかし、今では、企業はすでに十分な自己資本や資金を国内に蓄えています。不況になっても、企業がわざわざ海外から資金を引き揚げる必要がなくなったことになります。

唐鎌 なるほど。潤沢な資金ゆえのリパトリ消滅ですか。言われてみれば当然、その影響はありそうですね。

河野 さらに、日本企業だけでなく、国内の機関投資家も危機が起きたからといって「円買い」に動くとは考えにくい。

なぜなら、巨額の資金を運用するメガバンクなど機関投資家の多くは、グローバル金融市場でドルを調達し、その資金でドル建ての貸し付けを行ったり、アメリカの長期国債を購入しているからです。円を売ってドルを調達していたわけではないので、円の買い戻しという行動は発生しません。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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唐鎌 まったく同感です。さらに言えば、円相場の底流にある基礎的需給環境が2012〜2013年頃を境に大きく変わったことも、「有事の円買い」消滅の背景にあるでしょう。

台湾有事への懸念や中東での武力衝突といった地政学的リスクの高まりは、かつて反射的に円買い材料として処理されていました。しかし、最近はそうでもなくなっています。それどころか、逆に円売りで反応することも珍しくありません。

これは冷静に考えれば、当然の話だと思います。地政学的リスクは、得てして資源供給の問題に直結しやすい側面があります。日本の輸入の約25%は鉱物性燃料で占められています。だとすれば、地政学的リスクは貿易収支赤字の拡大要因と解釈するのが自然であり、円売り材料と理解するのが論理的でしょう。

また、近年では2024年1月1日の能登半島地震発生の際も、円売りで反応しました。1995年1月の阪神・淡路大震災、2011年3月の東日本大震災が強烈な円買いを引き起こしたこととは対照的な反応でした。

為替市場の円に対する基本認識は、もう変わったのだと思います。昔は「日本にとって悪いことでも、とりあえず危ない雰囲気になれば円を買う」という反応がセオリーでした。

しかし、今はむしろ「日本にとって悪いことが起きれば、円はちゃんと売られる」ということになっています。要は円が「普通の通貨」になったということだと思います。