「あの人と同じことをしてる」

高校卒業後、藤岡は地元から逃れるように大阪に出た。保育士として働き始め、結婚し、子どもを2人産んだ。不思議なことに、父のことは全く思い出さなくなった。

しかしいつしか、藤岡自身が酒を手放せなくなっていた。朝まで台所で酒をあおる日々。20歳そこそこで胃に穴が開き、血を吐いた。医師には「このまま飲んでいたら死ぬ」と忠告された。自分には生きる価値がないと、カミソリで何度か手首を切った。夫や近所の人とは、ささいなことでけんかし、ときに殴り合いもした。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
写真はイメージです(写真/Shutterstock)

1歳半の長女が「ちゃあちゃん(お母さん)、ちゃあちゃん」とまとわりついてきた時のことだ。酒を飲み、虫の居所が悪かった藤岡は思わず、力いっぱい手で払いのけた。吹っ飛んだ長女の頭が玄関のドアにぶつかり、バーンと大きな音がした。

同時に、割れんばかりの泣き声が上がった。その音で、ふっと我に返った。血の気が引いた。「あの人と同じことをしてる」と思った。

何とかしなくては─。その一心でカウンセリングを受け、虐待防止プログラムにも参加した。夫とは離婚し、子どもは藤岡が引き取った。20代、藤岡は「自分の人生」を生き直すことに必死だった。

30歳の頃、藤岡を亡父の幻影が襲う。同僚らと居酒屋で談笑中、ふと手元のグラスに視線を落として息をのんだ。酒の表面に店の照明が反射してキラキラ光っている。記憶がフラッシュバックした。父が振り上げたドスの刃の冷たい光が重なって見えた。

よみがえってきたのは、夜中に突然暴れ出した父の姿だった。父は刃物を手に藤岡を追いかけてきた。藤岡が逃げても、家の外まで執拗に追ってくる。「何やっとるだ、それあんたげの子どもだで!」。向かいに住むおっちゃんの絶叫が頭の中に響いた。20年以上、心に封印していた記憶が、忘れていた恐怖が、まざまざと呼び覚まされた。

写真はイメージです(PhotoAC)
写真はイメージです(PhotoAC)
すべての画像を見る

その居酒屋での出来事と前後してのことだ。ある晩、藤岡は自宅でベトナム戦争を描いたアメリカ映画『天と地』(1993年)を見ていた。テレビに釘付けになった。画面には、精神を病んだベトナム帰還兵の姿が映し出されていた。

裸でうろつき、妻を敵と勘違いしてにらみつける鬼のような形相をしていた。「お父ちゃんや!」。思わず叫んだ。父の死後、記憶の奥底に押し込めてきた父の姿にぴったり重なり、過呼吸になった。

大きな転機となった。藤岡は父の死後、自分の記憶から父の存在を消し、「なかったこと」にしてきた。葬儀の後に親戚から聞かされた、自分たちが知る姿とは信じられないほどかけ離れた父が何を背負ってきたのか、理解しようとも思わなかった。

しかし、この時にようやく、父の人生は戦争で壊れてしまったのかもしれないと、思いを馳せることができた。「ああ、これやったんか」と、ようやく腑に落ちた。

文/後藤遼太、大久保真紀 サムネイル/Shutterstock

『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』 (朝日新書)
後藤 遼太 大久保 真紀
『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』 (朝日新書)
2025/6/13
1,045円(税込)
320ページ
ISBN: 978-4022953216
戦後80年、元日本兵の子や孫がようやく語り始めたことがある。戦争トラウマだ。
過酷で悲惨な戦場を経験した元兵士の多くが心を壊した。悪夢、酒浸り、家族への暴力……壊れた心が子や孫の心もむしばんでいく負の連鎖。
隠された戦争の実相に迫る。 
amazon