父ちゃんが死んで、バンザイした

9歳の冬、父が死んだ。藤岡美千代(66)は、兄と2人で歓声を上げ、何度もバンザイした。

「やった!もうあの人おらんから、ご飯食えるな。ゆっくり寝られるな」

自殺だと知ったのは、何年も後だった。

藤岡の父・古本石松は、1922年に鳥取市の農家に生まれた。21歳で兵隊にとられ、シベリア抑留を経て、敗戦の3年後に故郷に戻った。藤岡が物心ついた頃には、父はすでに酒が手放せなくなっていた。

一家が暮らしていた鳥取市郊外の質素な平屋では、「ご飯よー」と母の声がすると、ほとんど同時にちゃぶ台が派手な音を立ててひっくり返った。一升瓶をつかんだ父が蹴っ飛ばすのだ。「ああ、またご飯食べられん」。藤岡は心の中でひとりごちる。

写真はイメージです(PhotoAC)
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それは、いつものありふれた光景だった。そして、父が暴れ出す前に、2歳上の兄に「美千代、逃げるぞ!」と手首をつかまれ、裸足のまま家の裏の田んぼに逃げるのも、慣れっこだった。

母が呼びに来るまでの1、2時間、兄妹はあぜに座って、ただぼーっと過ごした。夏はカエルの鳴き声が聞こえ、秋は虫の音がにぎやかだった。雪が降る冬の夜は、素足の指先が真っ赤になり、ピリピリと痛んだ。

家に戻るのは、父が大の字で寝込んでからだ。生活は貧しく、食べ物は無駄にできない。床に落ちたご飯をかき集め、ほこりを払い、腹ぺこになった体に入れた。ごはんやおかずが土間まで吹っ飛んだ時は、さすがに諦めざるを得ず、鍋に残っていたみそ汁だけをすすった。

そんな日常だったから、骨と皮のような兄妹だった。

これが「悲惨な」生活なのだろうか。いつもの事すぎて、幼い藤岡には分からなかった。「だって、それしか知らへんかったから」と藤岡は言う。

しらふの父はおとなしかった。酒を飲んでも、上機嫌な時は、ひざの上に乗せた藤岡におちょこの酒をなめさせることもした。おねしょをしたことを母にとがめられ、素っ裸で部屋の隅に放り出された藤岡を、自分の布団に入れてくれることもあった。

写真はイメージです(PhotoAC)
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一方で、酔った父には、いくつかの「定番」があった。たとえば、心中ごっこだ。

子どもたちに大声で「起立!」と号令をかけ、台所のプロパンガスの栓を回す。「シューッ」という音が響く中、涙を流しながら「父ちゃんと一緒に死のう」とわめくのだ。その様子を見て半狂乱になった母が、「死にたければお前が独りで死ね!」と叫んで栓を閉める。それで唐突に終わるのも、毎度のことだった。

父が30〜40分、藤岡を正座させて演説をぶつこともよくあった。内容はいつも同じだった。「父ちゃんはなあ、敵の砲弾の中、トラックを運転して救援物資を運んだだが」。酒臭い息を吐きながら、父は英雄のように誇らしげな表情を見せた。