「こんなことならあの段階で……」

我々は、戦争の泥沼から抜け出せない当事者を嗤えない。医師で作家の久坂部羊先生は、年末に「安楽死させてくれ」と頼む神経難病の患者さんに対して、手を尽くして症状のコントロールをし、穏やかな正月を迎えさせてあげられたという経験を書かれている。ただ、話はそこでハッピーエンドではない。その後で患者さんはさらに悲惨な症状に苦しみ、先生は「なんとかもう一度」と思いながら治療したが、無理だった。こんなことならあの年末の段階で死なせてあげた方がよかったのでは、と思うほどだったらしい。

以前がんセンターで私が治療し、うまく治った肺癌患者が、別の癌になり、がんセンターで匙を投げられて私の異動先へやってきた。当時、もう少しで期待の新薬「オプジーボ」が世に出るという時期で、私はそれまでの「つなぎ」として大して期待もせずにある抗癌剤を使ったが、これが案外効き、患者は元気になった。数ヶ月してその薬の効果も切れたが、オプジーボが使えるようになったのでそちらを開始した。結果、全然効かず、患者の状態は一気に悪くなった。期待した分だけ患者も落胆し、一旦は感謝していた家族も不平がちになった。

先輩の外科医から、術後の呼吸不全の治療を頼まれた。人工呼吸器に繋いで一旦は乗り切ったが、病気は再発しどう考えてももう無理、の状況になった。だがいくらそう説明しても、家族は頑として「もう一回人工呼吸器に繋げて治療してくれ」と言い張った。先輩に相談したら、「一回助けちゃったんだろ? じゃあやらなきゃダメだ。俺たちにはもう無理だと分かっても、素人はもう一回良くなると、必ず思う」と言われた。患者は無意味な「救命」治療を受け、苦しみながら亡くなった。

画像はイメージです(写真/Shutterstock)
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私が思い出すのはこんな話ばかりである。だから戦争でも博打でも、「良い時(勝っている時)に止める」のは、人間性に反するくらいの知識と決断力が不可欠で、それができる人間は稀有である。旧日本軍はミッドウェイ海戦以後負け続けたが、「なんとか敵に一太刀浴びせ、有利な条件で講和を」とずっと考えていたという。だがもし実際にどこかの戦闘で「勝って」しまっていたら、やはりそこで止められずに、「もうちょっと」とズルズル続けていたのではないだろうか。

文/里見清一

『患者と目を合わせない医者たち』(新潮新書)
里見清一
『患者と目を合わせない医者たち』(新潮新書)
2025/6/18
1,056円(税込)
256ページ
ISBN: 978-4106110924
医療技術は着実に進歩し、難病治療も可能になった。セカンド・オピニオンやインフォームド・コンセント、情報開示やAI活用もいまや当たり前だ。にもかかわらず、患者の不安が一向に減らないのはなぜなのか。現場で感じる「高邁な理想論」と「非情な現実」との乖離、そしてその狭間で治療を続ける臨床医の本心とは――。患者やその家族と向き合う診察室では語りえない医師たちの苦悩、医療の実情を鋭く切り出す。
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