まだまだ友たちのもとへは行けない

中松さんがフジの株主になったのは、30年ほど前。当時フジサンケイグループの会長だった故・羽佐間重彰さん(2023年死去)が麻布中学時代の同級生であり、友人を想う気持ちもあり株主になったという。

「羽佐間くんも草葉の陰で嘆いているだろうから、私も友人の思いを汲んで、“ドクター・中松ドクトリン”を提案したんです。

そういえば昔は、羽佐間くんをはじめ、各マスコミに親しい人や担当者がいたものですが、最近はみんな引退したか、もしくは亡くなってしまった。私だけが現役のままですね」

まだまだやること、やりたいことは尽きない。だから、まだまだ友たちのもとへは行かない。もうひとつ、大きな理由がある。 

「91歳にしてできた初孫の成長を、見届けなくてはならない。私に似て、好奇心旺盛で活発な男の子でしてね。発明心のある子に育ってもらって、世のため人のために活躍するよう、私と同じ東京大学に入ってほしい。ですからあと10年以上は現役でいる予定です」

発明の遺伝子は、着実に育っているということだろう。

後編では、「ドクター・中松流 少子化対策」についてもうかがう。

若かりしころのドクター・中松(本人提供)
若かりしころのドクター・中松(本人提供)
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PROFILE
中松義郎(なかまつ・よしろう)●1928年東京生まれ。国際最高教授。5歳で模型飛行機の「自動重心安定装置」を発明。東京大学工学部卒業後、三井物産に入社し、ヘリコプターによる農薬散布などを発明し、記録的なセールスを達成する。29歳のとき「ドクター中松創研」を設立。「灯油ポンプ(醤油チュルチュル)」や「フライングシューズ」など、世界に認められた発明件数は約4000件。科学技術庁長官賞、イグ・ノーベル賞栄養学賞を受賞。

取材・文/木原みぎわ 撮影/佐藤靖彦