境界線が曖昧な「日本スゴイ」言説
この自然的条件が与えてきた「恵み」と「試練」によって、日本人「独特の自然観」が形成されてきたと展開している。
ここで立ち止まるべきなのは、こうした自然の「恵み」と「試練」とは、世界中の人類がほぼ等しく経験している相克であるということだ。もちろん、地理的な条件は千差万別であるとは言え、自然の恩恵がなければ生存できないし、人間が社会生活を営む上で自然からの試練が皆無なところも存在しない。
けれども、なぜか偶然にも、日本列島の地理的特殊性が、そこに住む「日本人」だけに、ある「独特の自然観」をもたらしたことになっている。それが「自然を畏怖しながらも、自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする」自然観だというのである。
また、ここで「日本は」と平然と使われているが、ここで想定されている「日本」の範囲は明示されていない。そこに琉球は入るのか、北海道はどうなのか。南鳥島は入るのか。地理的・風土的要素を列挙しながらも、実は「日本」の境界線が曖昧なのは、「日本スゴイ」言説に共通する特徴でもある。
言うまでもなく、歴史的には「日本」の地理的範囲は延びたり縮んだりしている。大日本帝国時代には南樺太から朝鮮・台湾までが「日本」の国土だった。ここでは戦後の日本の版図が暗に念頭に置かれているだろう。
少なくとも、「北海道」や「沖縄」が「日本」に組み込まれてからの地理的特徴から、太古以来形成されてきたと想定されている「独自の自然観」を導き出そうとしているのだと言える。
こういった展開は、あまりにもありふれた・よく見かけるものなので、特にひっかかりも覚えずにスルーしてしまいそうになる。特に、日本独自の風土的条件が、そこに暮らす日本人独自の「自然観」を形成してきたという展開は、和辻哲郎『風土』の俗流解釈を筆頭に、「日本文化論」が好んでパクり・拡大再生産してきたイデオロギーだ。
もう何十年も「日本人」についてこんな物語が繰り返されてきたおかげで、私たちは慣れっこにさせられているわけだ。それにしても、「独自の自然観」の中身として挙げられている「自然に自らも溶け込ませ、共生しようとする」とは、いったいどういうことなのか?
文/早川タダノリ 写真/photo ac