ガザの人口の約3割が10歳未満
――ご自身の命の危険もある中でも人道援助…萩原さんを突き動かしているものはなんなのでしょうか?
私が、緊急対応コーディネーターとしてガザで活動したのは、2024年8月7日から6週間。人道援助にたずさわる人たちを突き動かしているもの、動機は人それぞれでしょうが、私の場合は“怒り”といった感情的なものがあるのには間違いありません。反面、悲しみとか憐みといった情緒的な動機だけでは活動を続けられないのも、また事実です。
あれは、私がガザに入った10日後だから8月17日のこと。イスラエル軍のガザ地区への攻撃が激しさを増していました。攻撃対象となっていたのが、私たちのチームが事務所を構えるエリアに隣接するブロック。
1キロも離れていないのではないかと思ったほど近距離から爆発音が聞こえ、ヘリコプターの音が近づいてくるのが分かりました。
やがてヘリが事務所から100メートルほどの上空に見え、「ダダダダダッ」という銃撃音とともに、空気の振動を肌で感じました。私たちは攻撃対象ではなかったとはいえ、いつ何があってもおかしくない状況でした。
私が緊急対応コーディネーターとしての判断を問われたのは、その夜のことです。現地スタッフから「軍事攻勢がとても激しくなってきている。攻撃対象地域から何人かのスタッフと家族が夜中に退避せざるをえない。一時的に事務所に避難してもいいか」と連絡がありました。
難しい判断でしたが、許可はできませんでした。スタッフだけではなく家族も入れれば、数十人を受け入れることになります。そうすると安全上の責任が取れなくなってしまいます。
家族や親族といっても、血縁関係のあるすべての人たちが押しかける可能性もあり、そうなれば数百人にもなりかねませんでした。またどのような人たちなのか、武器を携行しているかなど確認しようがありません。
もしそのような人たちが紛れ込んでいれば、イスラエル軍に攻撃の口実をあたえてしまうことにもなりかねず、結果として、医療活動の停止を余儀なくされ、患者やスタッフの命を脅かすことにもなります。スタッフたちは、私の説明と判断を尊重してくれました。
――シビアな判断ですね。日本で暮らしていると想像もつかない現実です。
私がガザ地区に入ったのは、2023年10月7日以降、ガザの紛争が激化してから10か月後です。私がガザの地を踏むまでは、情報の多くはメディアに頼るしかありませんでした。人間が存在できないほど破壊しつくされているのではないか。ガザに対して、そんなイメージを持っていたんです。
実際にガザに入ると、確かに街は破壊しつくされていたのですが、サインオブライフと言えばいいか……命のサインを確かに感じました。
ガザに入ってすぐに地中海沿いに延びる通りに足を延ばしました。そこには生気がみなぎっていました。通りには露店が並び、荷台を引くロバや馬、給水のためのタンクローリー、買い物客でひしめいていました。あれだけの破壊のなかで、苦しいながらも人々の生活がある。
ガザの人口の約3割が10歳未満です。そのせいか、ガザの人々のエネルギーを感じました。日本で報じられる“ガザ”とは違った面を見た気がしました。もっとも、人びとが日々生きぬこうと必死になっているわけですから、当然と言えば当然だったのかもしれません。