ボブの心に宿った「死の意識」 

その後はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして再始動。『Rasta Revolution』『Natty Dread』をリリースするが、転機となったのは1975年7月のロンドン公演の一夜を収録した『Live!』で、ボブ・マーリーの名は遂に世界中に知れ渡っていく。 

また、前年のエリック・クラプトンの復帰作『461 Ocean Boulevard』にも、ボブの「I Shot the Sheriff」が収録されて大ヒットしており、レゲエ音楽は多くのロックファンを魅了した。 

1975年7月17日、18日にロンドンはライシアム・シアターで行われた2公演の模様が収録された『ライヴ!<2CDデラックス・エディション>』(2018年2月7日発売、UNIVERSAL MUSIC)のジャケット写真
1975年7月17日、18日にロンドンはライシアム・シアターで行われた2公演の模様が収録された『ライヴ!<2CDデラックス・エディション>』(2018年2月7日発売、UNIVERSAL MUSIC)のジャケット写真

ジャマイカ(特に首都キングストン)は、PNPとJLPという二つの敵対する政党による抗争がエスカレートし、政治家や支持者ら多くの者が凶弾によって命を落としていた。治安や秩序の悪化を招き、人々は犯罪に巻き込まれるかもしれないという不安な日々を送っていた。

ボブはどちらの過激派メンバーとも友達だったので、中立のようにも見えた。この立場が災いして1976年12月3日、自宅にいるところを狙撃されてしまう。自宅のキッチンで見知らぬ男たちの襲撃を受け、左わき腹と左腕を銃弾で負傷したのだ。

ボブはそれでも8万人の観衆を前にフリーコンサートを決行して、再び命を狙われるかもしれない状況で熱い演奏した。

翌年、身の安全を心配する妻リタの意向でロンドンに亡命。チェルシーに住むようになる。ボブの心には「死の意識」と「一瞬を無駄しない」ことが強く宿った。

1977年の『Exodus』は最高傑作と言われる作品であり、以前にも増してボブのメッセージが聴き手の胸を打つ。冒頭の伝説のコンサートはこの後のことだ。

『Kaya』と『Babylon by Bus』をリリース後、ボブは白人だけでなく黒人の聴衆にも自らの音楽を届けるべく、アフリカの国々を訪問。ジンバブエ革命の心の支えになったり、米国の黒人にも完全に浸透していく。『Survival』『Uprising』といったアルバムはそんな頃に録音された。

『ZIMBABWE』『AFRICA UNITE』など、アフリカの平和を訴え、アフリカを歌った作品が収録された『Survival [LP] [輸入盤][UNIVERSAL MUSIC STORE限定盤][1LP]』(2023年4月20日発売、UNIVERSAL MUSIC)
『ZIMBABWE』『AFRICA UNITE』など、アフリカの平和を訴え、アフリカを歌った作品が収録された『Survival [LP] [輸入盤][UNIVERSAL MUSIC STORE限定盤][1LP]』(2023年4月20日発売、UNIVERSAL MUSIC)
すべての画像を見る

人生は非情。

ボブは足の親指にガンを発症。部分切除を思想上の理由で断ったが全身に転移。ツアーも限界だった。ラストステージはピッツバーグ公演。体調が優れなくても、アンコールに何度も何曲も応えた。

雪景色のドイツへ治療に向かうが、死は迫っていた。ラスタマンとしての誇りであるドレッドヘアーを切り、痩せこけていくボブ。

そして1981年5月11日、フロリダ州マイアミにて妻や母に見届けられて永眠。享年36。祖国ジャマイカのキングストンで国葬。

俺には野心なんてない。ただ一つ叶えたいのは、人類が共に生きること。
黒人も白人も黄色人種も共に。それだけだ。

文/中野充浩 編集/TAP the POP サムネイル/Shutterstock

参考・引用/ボブ・マーリィ財団による初のオフィシャル・ドキュメンタリー『ルーツ・オブ・レジェンド』