日本人はすべてを抱き止めて一体化

西洋というのは基本的にはキリスト教の影響を受けており、「神」と「人間」という二つの存在からスタートして、人間と動物、人間と自然、私とあなたというように、すべて二元論でわけて考えていく。

だから英語など西洋の言葉はみな主語を明確にして、自分と他者をはっきり区別するところからスタートする。それが私の専門でいえば、個の確立、個人の尊重という近代憲法、立憲主義につながっていくのである。

ところが、日本人の趣向なのかわからないが、日本では自分と他者を明確に区別することをあまりやらない。主語を使うときでも「私たち」「我々」というような形で自分を曖昧に埋没させようとするし、相手との違いを際立たせるよりは、相手と同じという同質性を強調して、つながっているという仲間意識を優先させようとする。

それは、「私とあなた」だけでなく、「人間と自然」の関わりにおいても同じである。日本では自然と人間は対立せず、人間は自然の一部だと考える。草や木や動物に命を感じて、同じ命として大切にする。そして山や岩や大木など自然の中に神を見いだし、自分の内なるものと一体化させようとする。

江戸時代まで日本には「論理」という概念がなかった? 日本人が意識しないと「論理的に考える」ことが身につかない理由_3

そういうすべてのものを抱きとめて、一体化させていこうという日本人だから、自分を際立たせるのではなく、自分を他者の間に埋没させて空気になじませてしまうことを好む。「空気を読む」という言葉があるが、まさに空気を読んで、全体の雰囲気をこわさないのが日本の文化である。

一説によると「私」という言葉は「わつくし」、つまり「我をつくす」に由来するらしい。我をつくすとはすべて捨てつくして、私自身はもうなくなっています、私は無です、という意味だという。だから「私」の語源は私は何者でもありませんという意味らしい。