日本初の受験天才
この人生を賭けた点取りゲームの勝者である高級官僚の地位や権力は絶大なものでした。
当時の中国の官僚は集めた税金の一部を皇帝に上納し、残りは私財にしても良いことになっていました。つまり、ペーパーテストを極めた彼らは莫大な富を得ていたのです。
科挙に合格した官僚たちは、現在の日本の金銭価値に換算して最低でも100億円以上の蓄財があったという話もあり、一度官僚になると家が三代まで栄えると言われていました。
当然ですが、今の日本で東大理三や京大医学部に受かったとしても、必ずしも高給取りになれるとは限りません。実際、国家試験まで辿り着けなかったり、医師の仕事が務まらず、塾の講師などをしながら細々と生活している東大京大医学部卒はたくさんいます。無事医者になったとしても、勤務医として働く場合の年収はせいぜい1000〜2000万円程度で、成功した経営者やプロスポーツ選手の足元にも及びません。
今の日本では、受験学力で頂点を極めれば必ず大金を獲得することができるという単純明快な構造にはなっていないわけです。
しかし、当時の中国ではひとたび科挙に受かってしまえば、生まれにかかわらずこうした大富豪への道が誰にでも開かれていたことになります。勉強の出来と大量の金銭が直結していたわけですから、国民がこぞって受験に人生を賭けたのも頷けるでしょう。
ちなみに私は、「日本初の受験天才」は阿倍仲麻呂なのではないかと考えています。阿倍仲麻呂は奈良時代の遣唐使として歴史の教科書に登場し、中国では「日中友好に最も貢献した人物」として知られているようです。
日本史の教科書や百人一首でお馴染みの阿倍仲麻呂ですが、実は外国人(日本人)ながら若くして科挙試験に合格している「受験天才」なのです。
幼少期から抜群に頭が良く、10代半ばで従八位を受けるほどだったとか。19歳のときに遣唐使として唐に渡り、太学と呼ばれる最高学府で学んだ後、科挙試験を受験します。科挙試験の中でも超難関と言われる進士科(合格者の平均年齢は50歳とも)を受験し、なんと20代半ばで合格してしまいます。
玄宗は彼の才能に惚れ込み、日本への帰国を許さないほど重用し、詩人の李白なども彼には一目置いていたといいます。