経済と気分の違い

今は統計的な数字だけを見てこの30年は「失われた」期間であるというのが、主な論調となっています。でも、この30年間、高度成長期と同じようなスピードで「成長」を続けていたらどうなっていたのでしょうか。

東京の地価はどんどん上がり、普通のマンションが3億円でも買えなくなっていたかもしれません。原子力発電所が、もっと国中にたくさん作られていたかもしれません。エネルギーをもっと消費する国になっていたのは間違いないでしょう。

当然、石油などの資源を大国同士で奪い合うようなことになるので、アメリカや中国との緊張も高まります。現在は米中の対立構造が深刻化していますが、日米中の三つ巴になっていたかもしれません。

米中対立構造のイメージ
米中対立構造のイメージ
すべての画像を見る

そういう状況を想像してみれば、本当に「失われた30年」で片づけていいのか、と思う方もいるのではないでしょうか。良い面も十分にあったのではないか、むしろ日本が身の丈に合う大きさになる期間だったのかもしれない、と。

こうした低成長を肯定するような考え方に対して反論があるのは承知しています。

「そんなことを言う奴は経済がわかっていない。収入が伸びないこと、生産性が上がらないことが不幸の理由なのだ」

経済学的な観点からすればその通りなのでしょう。しかし、GDPに代表される経済の数字を基本にものを考えるよりも、自分たちの生活が幸せならば、あるいは自分の気分が良ければいい、と考えるほうが普通ではないでしょうか。東大病院の先輩医師たちのように、ずっと不機嫌で良いはずがない。

江戸時代に日本にやってきた外国人が、日本人の印象としてみんなニコニコしていると書いています。大して成長しておらず、また豊かでもないのに、です。

お金がないから不機嫌になるのではなくて、お金を基準にしてしまったので、お金によって機嫌が左右されるようになった。そう考えてみてもいいのではないでしょうか。

組織では仕事が細分化されて、規則が厳格化されて、息苦しくなったといった話を聞くことがあります。経済を優先して、シミュレーションを重視すれば、当然、そうなっていきます。コストパフォーマンスを重視すれば、他人にお節介をやく必要はない。自分のことだけやれば良い。結果として、社員や部員同士のつながりは希薄になっていきます。それが幸福度を上げることにつながるのかは、関係ありません。それで不機嫌が増しても誰も責任は取りません。

#1 養老孟司が「自衛隊のいる後ろめたさ」がなくなるのは危険だと警鐘するワケ…中国に見る、規範を重視する伝統の重要さ はこちら


文/養老孟司 写真/Shutterstock

人生の壁
養老孟司
人生の壁
2024/11/18
968円(税込)
208ページ
ISBN: 978-4106110665

生きていくうえで壁にぶつからない人はいない。それをどう乗り越えるか。どう上手にかわすか。「子どもは大人の予備軍ではない」「嫌なことをやってわかることがある」「人の気持ちは論理だけでは変わらない」「居心地の良い場所を見つけることが大切」「生きる意味を過剰に考えすぎてはいけない」――自身の幼年期から今日までを振り返りつつ、誰にとっても厄介な「人生の壁」を越える知恵を正面から語る。

【目次】

まえがき
  
第1章 子どもの壁


1 子どもを上手に放っておきたい
子どもの自殺が心配/子どもに手をかけたほうがいいという錯覚/幼い頃は「褒めて育てる」が正解/「お受験」教育は勧められない/「ケーキの切れない非行少年」をどう考えるか
2 子ども時代は大人になるための準備期間ではない
昔のほうが子どもを大切にしていた/子どもは大人の予備軍ではない/子どもへの圧力が増していないか/ジャガイモも人も勝手に育つ/努力と成果を安易に結び付けないほうがいい/偉業は意識して達成するものではない/大きな夢を持たなくてもいい/意識はそんなにえらくない
3 子どもを大人扱いするのは大人の身勝手
我が家にいたお尋ね者たち/ませていた子ども時代/小学生の頃に死にかけた/田舎の子が外に出なくなった/学生を上手に甘やかしていた時代/世間は自分よりも先に存在している

第2章 青年の壁
 
4 解剖学を選んだのは「確実」だったから
世の中で確かなものとは何だろう/お金とは一定の距離を置きたかった/食えるか食えないかが大問題だった
5 煩わしいことにかかわるのは大切
自分とは中身のないトンネルのようなもの/空っぽの人間が増えてきた/煩わしい日常を喜ぶ/資格を取ってもスキルは上がらない/「嫌なこと」をやってわかることがある
6 貧乏は貴重な経験
青春時代って何だろうか/運動が苦手だった思春期/貧乏は人を育てる/引き揚げ経験者は大人だった

第3章 世界の壁、日本の壁
 
7 世界は一つにはなれない
西洋の思想が世界を覆った/グローバル化の流れは止められない/自然保護のおこがましさ/環境問題に感じる先進国の勝手/『バカの壁』で指摘していたこと/夏目漱石の苦悩は現代を先取りしていた/立派な標語は信用できない/国境は頼りないもの
8 歴史は急によみがえる
日本は暴力支配の国だった/暴力のコントロールが重要/後ろめたさのない力は良いものなのか/大災害が日本を変える
9 日常生活は生きる基本である
人の気持ちは論理だけでは変わらない/安倍さんの国葬は靖国で行われた/日常を変えることに無神経な人たち/「個の尊重」の行き着く先は/人がただ集まることに意味がある/出光はなぜ社員を一人も首にしなかったか/死亡情報は誰のものか

第4章 政治の壁
 
10 あいまいなのは悪いことではない
今も昔も都会人は災害に弱い/南海トラフ巨大地震に備えることの大切さ/空気は簡単に変えられない/あいまいさを許さない社会は厄介
11 自給自足を基本に考える
日本はどこまで自立できるか/本気で自給を考えなくてはならない/首相候補は誰も環境に興味を持たない/台湾有事が日本社会を変えるかもしれない
12 数字に惑わされてはいけない
GDPを気にしても仕方がない/本当に「三〇年間」は失われたのか/国の心配と個人の心配が逆転している/地元の癒着は悪いことばかりではない

第5章 人生の壁
 
13 怒りっぽい人が見ていないこと
自分にとって居心地のいい状態を知っておく/社会問題について感情的にならない/社会のシステムが素直でなくなっている/先が見えてしまう社会の問題/早期リタイアに憧れたことがない
14 人生とは学習の場
人生相談を考えたことがない/とらわれない、偏らない、こだわらない/他人の人生を背負う意味/人生はそもそも厄介なもの/コスパを追及して何になるのか/軽く生きることを心がけてみたら/わかってもらうことを期待しない/「生きづらい」は嫌な言葉/生きる意味を過剰に考えすぎない

あとがき

amazon