「歌詞のみ」や「本人出演なし」PVを作成した理由
日本でも若い世代を中心に売れまくった『フェイス』は、発売から52週間にわたる長いキャンペーンが続いた。
そして1988年2月には、10ヶ月に及ぶワールドツアーが日本からスタート。
しかし、世界中を飛び回るハードなスケジュールの中で、喉に腫瘍ができたりと、ジョージは精神的にも肉体的にも疲弊していった。
「僕は、ソングライターとしての自分の能力や才能を守るために、パブリシティやプロモーションやマーケティングといったところから退いていたい。(中略)その才能を守るために戦う必要があるって気づいたんだ。それ以上に、僕の生活を守る必要がある」
ソロデビュー時のプロモーションで、多くの人に染みつかせてしまったマッチョでセクシーなイメージや、グルーピーたちに騒がれるポップスターとしての人気を脱ぎ捨て、シンガーとして、ソングライターとして、そして一人の人間として真っ向から勝負したい。
そんな中で、1990年9月に発表されたセカンド・アルバム『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol.1』には、ジョージの強い信念が込められた。
「“ジョージ・マイケル”は作り物だった。決して現実のものじゃなかった。それを恥じるつもりはないけれど、もう終わりだ。それは当初の目的よりもずっと長く生きた」
「名声や孤独ほど早く人をダメにするものはない。ステージやビデオに出てくる人物なんて、本当は存在しないんだ。でも、ソングライターは存在する。それに歌も存在する」
シングルカットされた『プレイング・フォー・タイム』のPVは歌詞のみの映像、『フリーダム!’90』のPVには本人は登場せず、ナオミ・キャンベルやシンディ・クロフォードら当時のトップモデルがリップシンクで出演するなど、「偏見抜きに聴いてほしい」という姿勢はとことん貫かれた。
それも作品に対する揺るぎない自信があったからこそだろう。
イギリスでは前作『フェイス』を上回るセールスを記録した『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol.1』だったが、アメリカでは200万枚にとどまり、前作のセールス記録から大きく後退した。
所属レーベルのプロモーションが行き届かなかったために、米国内での売れ行きが伸び悩んだのに加えて、当時のレーベル・オーナーであったトミー・モトーラがアルバムについて酷評。
そのことに激怒したジョージは、レーベル相手に契約無効を訴える裁判を起こす。