研への楽曲提供で、中島みゆきは確固たるポジションを築いた
中島みゆきは、研ナオコのデビュー曲の『大都会のやさぐれ女』を覚えていて、しかもCMのキャラクターとして人気が出てきたことを、好意的に思っていたということが分かった。
当時の週刊誌の取材では、本人の言葉としてそのことがこのように明らかにされていた。
「“オレは美人しか撮らない” “ガハハハハ” “だからフィルムは入ってない”っていう、あのカメラのテレビCMを見た時、いいなァと思ったのよ。女のコなら誰だって、あんな顔でバカ笑いしたくないはずなのに、あのヒトはピエロになり切っている。それと同じ振幅でハネ返ってくるのは、ひとりぼっちの女のサビシサ。私にはそれがよくわかるのよ」
(1976年12月「中島みゆき 札幌 マイ・ウェイ人生」週刊明星より)
田辺との話し合いはスムーズに決まって、中島みゆきは研のアルバムにいくつかの楽曲を提供することになった。
そして中島作品6曲が収録されたアルバム『泣き笑い』(1976年8月リリース)の中から、『LA-LA-LA』がシングル発売されてヒットした。
さらには9月になってから『あばよ』がシングルカットされると、ヒットチャートで1位を記録したのである。
前出の週刊明星には、中島みゆきが『あばよ』について、こんな話をしてくれたとも書いてあった。
「私自身のことを書いたのよ。器用じゃないから、フィクションが歌にできないの。自分の体験、自分の気持ち、いつでもそれが出ちゃう」
研ナオコの『LA-LA-LA』と『あばよ』が連続ヒットしたことによって、女性ならではの感性を持つシンガー・ソングライターとして、中島みゆきは確固たるポジションを築いていく。
その一方では、1977年に自分自身の『わかれうた』をNo.1ヒットさせ、歌謡曲とニューミュージックの境界線を躊躇なく超えて、新しい時代の扉が開いたのだ。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル/研ナオコ『あばよ』(1976年9月25日発売、キャニオン・レコード)