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対談は後半戦。漫画、サッカー、Jリーグへの愛ある熱いトークに!
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漫画家になると決めてからの人生は全部楽しい

中村憲剛(以下、中村) 読者の方も関心があると思うのでぜひ聞かせてください。先生はいつから漫画が好きで、いつ漫画家を目指そうと思ったのですか?

小林有吾(以下、小林) 4、5歳のときにチラシの裏にコマを割って漫画を描いていた写真が残っているんです。4歳上の姉が4コマ漫画を描いていて、その影響が強かったですね。もし(姉が)いなかったら、チャレンジしなかったんじゃないですかね。姉が目の前で描いてくれるわけなので、見よう見まねでやって。それが大きかったかなと。

中村 お姉さんがいなかったら「漫画家・小林有吾」は誕生しなかったのかもしれないってすごい話。読むのも好きでした?

小林 大好きでした。おばあちゃんが『週刊少年ジャンプ』を買い与えてくれて、ボロボロになるまで読んでいました。挙句の果てに、その作品の中に入りたいと思って、たとえば『ドラゴンボール』に自分が考えたキャラクターを付け足して描いていましたよ。勝手に鳥山明先生とコラボして、悟空と同じ強さに設定して、セリフもつけて、みたいな。

中村 僕も漫画大好き人間ですが、自分で横に描き入れる発想はありませんでした(笑)。普通はなかなかそこまでやらないですよね(笑)。

小林 『聖闘士星矢』や『ハイスクール!奇面組』……全部好きでしたね。

中村 同時に漫画家になろうという気持ちも芽生えていくんですか?

小林 なりたいなっていう気持ちはずっとありました。でも漫画家にどうやってなれるのかが分からなくて。普通に大学を卒業して、普通に就職したんですけど、ずっとゾワゾワしていたんですよ。

中村 ゾワゾワっていう表現、なんとなく伝わってきます。

小林 24歳のときに、「このままで人生終わるのか、何のために生きているんだ」って急にスイッチが入りました。実家に住ませてもらって、母親がつくるメシを食べるだけで、俺、何をやっているんだろうって。そこから仕事を辞めて、バイトをしながら投稿していく生活に変わりました。ずっと自分の中にあったゾワゾワと寒気がするような感覚を、この時、押し出せた感じがありました。

中村 スイッチが入るって、まさに『アオアシ』の世界ですね。誰かにゾワゾワさせられたんじゃなくて、自分自身がそうさせたんですね。

小林 そこまでの人生が楽しくなさすぎましたから。だからこそ、そこからの人生、ずっと楽しいです(笑)。漫画を通じて努力することの喜びを覚えました。

中村 やりたいことがあっても、本気でやらないまま大人になった人たちは割といると思うんです。でも先生のように24歳でスイッチがパーンと入るっていう実体験は、そういう人たちにメチャクチャ勇気を与えるような気がします。

小林 でもオススメはしないです。自分自身でも、もっと早く動いていたらって思いますし。僕がこうだったから、まだ自分も大丈夫だ、のんびりしていいでしょ、とはならないほうがいいとは思うので。

中村 どうしても『アオアシ』にかぶせてしまいますけど、指導者の福田達也が(主人公の)青井葦人を導いた構成は、先生の深層心理なんじゃないかって思うんです。あの出会いのシーンから上京するまでの描写がやけに生々しく感じて。夢を持つ少年を描くときに、自分もそういう人がいたら良かったなっていう先生のちょっとした願望のような。先生の話を聞きながら思っちゃいました。

小林 そうですね、葦人は福田と出会ってなかったら、きっと高校でサッカーは終わっているはず。どの指導者にいつ巡り合うかっていうのはすごく大事で、福田と会う葦人は強烈な運を持っていました。憲剛さんが僕の話をしてくれましたけど、漫画家でいえば指導者は編集者になります。その意味で言うと24歳で漫画家になるというスイッチが入って、最初に出会った講談社の編集者の方は僕にとってすごく大きかった。ネームの書き方とかイチから教えていただきましたから。導いてくれる人との出会いが大事なんだなってことは実感しましたし、もちろんそれは漫画にも表れていると思います。

中村 実際にそういった経験があったんですね。福田をその編集者の方に、葦人を先生に置き換えると、ちょっと今ゾクっとしました(笑)。

小林 憲剛さんにはそういう方がいらっしゃいました?

中村 川崎フロンターレに入るきっかけとなったのも、川崎フロンターレとつながりのある中央大学サッカー部のOBの方が、僕が4年生になるタイミングでコーチに就任して、その方と春先に進路面談をしたところからなんです。そこで、もしJリーグでプレーしたいっていう意思を自分が伝えていなかったら、絶対にプロになれていないと思うんです。もちろんフロンターレに入ってからも日本代表でプレーするようになってからも、監督しかり、チームメイトしかり、自分を高みに導いてくれる存在が必ずいました。僕も葦人のような強烈な運があったということ。でもそれって、何とかしなきゃいけないっていう、何か鬼気迫るものが自分にあったからこそ、導いてくれる人が何とかしてあげようって思ってくれたんじゃないかなとも感じるんです。

小林 そういう出会いって紙一重ですよね。

中村 はい。僕も学生時代に怠惰な生活している間はそういう出会いもなかった。やりたいことを見つけて、努力を積み重ねていくことで、その紙一重の運を呼び寄せられたのかもしれないですね。

小林 その気持ち、よくわかります。

「このままで人生終わるのか、何のために生きているんだ」と24歳で漫画家を志した小林さん。
「このままで人生終わるのか、何のために生きているんだ」と24歳で漫画家を志した小林さん。

愛媛の一室で描いた作品が、フランスの子供たちに喜ばれている感動

中村 漫画家としてデビューしたときは相当うれしかったのではないですか?

小林 純粋に一番喜べた時期でしたね。一つ階段をのぼって、じゃあ次って感じでしたし“俺、すごいんじゃね?”みたいな(笑)。自分のなかで狂気乱舞できていたというか。憲剛さんは中央大学を卒業されて川崎フロンターレでプロになったときってどうだったんですか?

中村 大学4年の10月に内定をもらえたんですが、その時は純粋に嬉しかったです。夢が叶った瞬間だったので。なのでそこから1月にフロンターレに入るまでずっとワクワクしていましたし、最初はすごく楽観的だったんですよね。サッカーだけでお金をもらえるなんて、いい世界だなって。環境面も大学のときは土のグラウンドだったのに天然芝だし、ホペイロやメディカルといったスタッフも充実していて、練習は緊張したけど楽しかった。だけどいざキャンプが始まったら自分はCチームくらいの扱いで、大卒でこの立ち位置にいるなら今年でクビだよなって思ったんです。(加入から)割と1カ月くらいでそれまで感じていた喜びや楽しさはすっ飛んで、強烈な恐怖を感じましたね。

小林 おそらく普通はその恐怖に気づかない人のほうが多いと思うんです。1カ月で気づくってやっぱり憲剛さんは勘がいい。

中村 もうそこからは必死でしたね。一つ結果が出たとしても満足を得ることなく、継続して自分を伸ばしていかなきゃいけない。これは漫画でもサッカーでも同じだとは思うんですけど。

小林 その通りです。僕も昔の自分であれば満足できても、そのときからは「もっと全然いけるぞ」っていう感じを持っていました。一歩ずつではあっても、自分のなかではこんなもんじゃないよ、と。いろんなところに道が開けているような。これ以上は自分の力が出せなくて無理だと感じていたら、そこで止まっていたのかもしれませんね。

中村 僕もそうでした。自分で自分の可能性に蓋をしないっていう。望めば望むほど、いろんな人の力を借りることができたり、結果を残すことができたり、おそらくこのくらいでいいかなって思っていたらそこで引退だったと思うんです。だから40歳までプレーできたし、最後までやり切ることができました。自分が望めば、今日より明日、明日より明後日もっと良くなる。限界をつくらないように、とずっとやってきたつもりです。

小林 憲剛さんの場合、いつまで(プレーする)というのは自分で決めることができていたんですか?

中村 もちろんクラブとの契約があるので“もう必要ない”と言われたらそれで終わりです。言われないために何をするかと言ったら、結果を残すしかない。“憲剛が出たら勝つよな、チームが良くなるよな”とずっと思ってもらわなきゃいけないし、そうしてきたつもりです。最終的には自分が40歳までと線を引く形を取ることができました。35歳以降は誰かが止めるというより、自分がどこで終止符を打つかというフェーズに変わっていきましたね。
漫画家には引退がないと思うんですけど、そこも共通していませんか? (読者に)「面白い! 来週まで待てない!」って思われる漫画をつくり続けなきゃいけないっていうことなのかなって。

小林 そうそう、確かにそうなんです。

中村 だから現役時代は過去を振り返らなかった。今の積み重ねが未来をつくるって僕は思っていたから。

小林 その言葉、いいですね。(心に)染みた(笑)。

中村 先生にもう一つ、聞きたかったんですけど、いっぱいいる漫画家さんのなかで目指すべき存在みたいな方はいるんですか?

小林 どうなんですかね。やっぱり見るところは『ドラゴンボール』の鳥山明先生とか『スラムダンク』の井上雄彦先生とか、“王”ですよね。あの先生たちに比べたら自分なんてあまりにちっぽけな存在なんで、もっともっと頑張らなきゃいけないって思います。

中村 『アオアシ』も日本にとどまらず、世界に広がっています。

小林 ありがたいことに日本の次にフランスで売れていて、この前パリでサイン会があったんです。握手して手が震えている子とか、感動して泣き出す子もいたりして、本当にうれしかったですね。(活動拠点に置く)愛媛の一室でコツコツ描いてきたものが、こうやってフランスでも喜ばれているんだと実感できて、良かったなって心から思いました。

中村 世界でも『キャプテン翼』に影響を受けた選手が数多くいたように、『アオアシ』もいずれそうなるでしょうね。

小林 マジですか(笑)。もし本当に選手たちにも影響を与えられるようになれば、すごいことだなって思います。