「芸人としての器」と高すぎる「毒舌レベル」

もちろん1990年代と現在では時代が違いすぎるため単純比較はできない。

昔は今のようにインターネットが普及しておらず、一般人の声が広く可視化されるSNSなんてものはなかったから、“松本アンチ”が見えにくかっただけかもしれない。

また、近年はコンプライアンス意識が強化され、差別やハラスメントに対して世間の目は年々厳しくなっているため、今は毒舌芸が厭悪の対象になりやすい。

そのため1990年代よりも現代は毒舌芸人が生きにくいという側面はあるだろう。

ただ、そういった時代背景を差し引いても、当時の松本よりも今の粗品のほうが嫌われていると感じているのは、筆者だけではないはず。

なぜ霜降り明星・粗品は90年代の松本人志より”嫌われて”いるのか? ともに強烈な毒を吐きながらも“粗品アンチ”が圧倒的に多い意外な理由_2

ここで筆者なりの結論をお伝えしたい。

粗品が嫌われる理由――それは、彼のお笑いの才能レベル以上に毒舌レベルが高まりすぎているから。

コレだと思うのだ。

松本人志のお笑いの才能レベルは突出しており、その天才っぷりで大衆を黙らせていた感があった。アンチもいただろうが、その次元の違うセンスで屈服させていたに違いない。

松本は旧時代の既成概念をブッ壊し、新たな笑いの価値観を生み出していた。松本の暴言も相当なものだったが、新時代を創生していた松本の才能レベルは、彼の毒舌レベルを圧倒的に凌駕していたように思う。

では、粗品はどうだろうか。

彼のお笑いのセンスは確かに素晴らしいものがある。コンビでの漫才も、ピンのフリップ芸も、平場のトーク力も、トップレベルにおもしろい。磨き抜かれた名人芸だ。

けれど、言い換えれば“今の時代のお笑いの中ですごくおもしろい”ということで、その枠組みから飛び出してしまうほどの“常識外のお笑い”ではない気がするのである。

粗品がもし、旧時代をブッ壊して新時代を創っていくほどのお笑いを提供できていれば、毒舌を吐きまくってもここまでアンチは湧いていないのではないだろうか。