ラジカルでアナーキーな題材ばかりを選んだ
僕はこの番組作りに全身全霊を賭けた。大新聞の活字報道などが捉えきれないさまざまな社会問題、事象、人物を、映像の世界で表現しようとした。
ドキュメンタリーは、その客観性や中立性以上に、制作者の主観や世界観を前面に出せる、そこで勝負できるものがある、と手ごたえを感じた。
スポンサーと視聴率さえあれば何を取り上げ、どう料理してもいい。僕は確信犯的に、ラジカルでアナーキーな題材ばかりを選んだ。
それが時代の求めているドキュメンタリーだという確信があった。60年安保後の、大学紛争や全共闘運動がさかんな過激な時代であったこともある。
僕は次々に新企画を提案した。毎回、話題性のあるもので、それなりの視聴率を稼げるものばかりだったので会社も文句は言えなかった。
その代わり僕はいわゆる会社付き合いをしなかった。会議にも出ないし慰安旅行にも行かなかった。協調性ゼロ、昇進もなしだ。同期が課長や部長職になるのを見ながら、僕は退社するまでずっと平社員扱いだった。
ただ、この時の仕事への集中が、僕にとっては、この上ない経験になった。納得のできる番組をいくつも作ることができた。いくつか思い出深い企画を挙げてみたい。
一つは、特別少年院に入所している少年のドキュメンタリーだ。
これは、録音担当の安田哲男の提案だった。「田原ちゃん、究極のドキュメンタリーを作らないか」と言う。僕が、「究極のドキュメンタリーって何だ?」と訊き返すと、安田は、「神奈川県久里浜に特別少年院というのがある。
特別少年院は少年院をあちこち回ってきた少年が入る監獄みたいなものだ。ここに入所している少年を、少年院のなかから撮り始め、出てきて更生するプロセスを撮ろうじゃないか」と言う。
僕が「そんなの、できっこないよ。少年院出身だと言わないから更生できるんであって、番組で少年院出身だと紹介したら更生できるわけがない」と反論すると、安田に「意気地なし。俺はもう、手を切るぞ」と罵倒された。そこまで言われて黙っている僕ではない。
僕らの企画はそんなものばかりだった。誰かが発案する、反対あり、賛成あり、喧嘩腰の議論あり。まだどこもやっていないものをあえてやるというところに最大の価値を置いた。困難であればあるほどやる気を刺激された。それが僕らのプロ意識だった。
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