時にはやらせ的な演出もいとわず

僕がテレビの世界で最初に取り組んだのは、ディレクターとしてドキュメンタリーを制作することだった。

当時、テレビドキュメンタリーは、NHKの吉田直哉らの「日本の素顔」、日本テレビの牛山純一の「ノンフィクション劇場」、村木良彦、宝官正章らのTBSのドキュメンタリー番組などが主流で、開局したての東京12チャンネルは、まさにインディーズ的存在(マイナーな独立系)で、「テレビ番外地」とも呼ばれていた。チャンネルを「12」まで回す人はあまりいないよね、と。

僕が東京12チャンネルに入ったのが1964年11月で、辞めたのが1977年1月だから、12年2カ月勤めたことになる。

いまのテレビ東京はいい会社だが、僕が入った頃の東京12チャンネルでディレクターを務める者には三重苦があった。

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第一に、制作費が格段に安い。TBS、日本テレビなどに比べたら3分の1、まさに月とスッポンだった。特に最も大きなウエイトを占めるフィルム代の節約がキツかった。

ある時NHKの担当者に「どれだけフィルム使うの?」と訊いたことがあるが、その答えは「わからない」だった。要は制作費のなかに入らず別勘定だと。羨ましいと思った。

第二に、いくらいい企画を考えても、それが通らない。なぜか。スポンサーが付かない。自分でスポンサーを見つけなきゃいけない。これに手間暇がかかった。

第三に、自分でスポンサーを見つけてきて作品を作っても、局自体が「番外地」扱いされており、なかなか視聴率が取れない。

となると、普通にやっていけば、安い制作費と非力なスポンサーで、誰も見てくれない、誰からも問題にされない番組を作らざるを得ない。僕は、それを逆手に取った。

視聴率を稼ぎ、スポンサーを呼び込むためには、他局が絶対やらないようなものを作る。NHKや全国ネットの民放各社と勝負するには、彼らがやらないことをやるしかなかった。

つまり、過激な題材を元に、時にはやらせ的な演出もいとわず、その結果としてスタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、すべて撮影するという手法を取った。

それで作ったのが「ドキュメンタリー青春」という企画だった。まずスポンサーとして東京ガス一社提供という枠を取り、週1回30分番組で、僕を含め4人のディレクターが交代で演出することにした。