「真正さ」の問題とは何か
私たちがたえず誇示へと駆り立てられるのはどういうわけなのか。これについては、チャールズ・テイラーが「真正さ」の問題として捉えたものからアプローチできる。テイラーは、近代における変化として「名誉」から「尊厳」への移行があったと指摘する。
そもそも名誉とは、誰かには与えられ、誰かには与えられないことで価値を持つ財であろう(全員が受賞する賞に価値はない)。そのかぎりで、名誉の観念は不平等な階層秩序を前提としている。
だが、そうした秩序はいまや崩壊し、代わりに尊厳の観念が現れた。これは普遍主義的で平等主義的なものであり、「この尊厳の観念が、民主主義社会と両立しうる唯一のものであるということ、また旧い名誉の観念がこれにとって代わられるのが不可避であったということは明白である」(チャールズ・テイラー「承認をめぐる政治」『マルチカルチュラリズム』佐々木毅ほか訳、岩波書店、1996年、41頁)。
つまり、稀少な財としての名誉を求める競争から、誰もが等しく尊厳を享受する時代へと移行したというわけだ。
こうした平等化のプロセスのさなかで、逆説的にも切実さを増すのが「真正さ」にほかならない。ここで「真正さ」と呼ばれているものとは、たとえば以下のようなことだ。
人間として存在するうえで、私自身のものである仕方というものが存在するのである。私は自らの人生を、他人の人生の模倣によってではなく、こういう仕方で生きることを求められるのである。
(……)私自身に忠実であることは、わたし自身の独自性に忠実であることを意味する。この独自性は、私のみが明確な表現を与えることができ、発見できるものである。私がそれに明確な表現を与えるとき、私は自らを定義づけてもいるのである。私は真に私のものである潜在的能力を現実化しているのである。近代の真正さの理念、そして、通常この理念を含む自己達成や自己実現という目標の背後には、このような理解が存在するのである。(44・45頁)
したがって「真正さ」とは、自分の人生に意味を与えてくれるアイデンティティのようなものだろう。
以前であれば、私たちのアイデンティティは社会的階層に大きく規定されており、あえて問われることはなかった。しかし平等な尊厳の時代には、承認は自明なものではなくなり、自分の独自性がいっそう深刻な問題となる。こうした状況の変化が「承認をめぐる政治」の背景となっている。
さて、同じことが現代の誇示の氾濫についても言えるだろう。誇示者もまた、人々が等しく誇示するなかで、他人とは異なる真正さや独自性を求めてもがいている。しかし問題は、その欲望には決して真の満足が訪れないことである。
「誇示の民主化」は万人が多かれ少なかれ誇示的に振る舞うことを可能にしたが、まさにそのことによって誇示そのものの条件が壊れてしまった。自慢が賞賛や嫉妬を必要とするとすれば、誇示の民主化のもとでその効用は著しく下がるだろう。
まるで漂流する宇宙船から独りむなしくシグナルを送り続けるように、いまや時宜をまるで得ない、宛先不明の誇示だけが繰り返されている。これがわれらの誇示者の成れの果てなのである。
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