そもそもロヒンギャとは
そもそもなぜ、群馬県南東部にある人口約7万5000人のこの小さな町が、「ロヒンギャタウン」となっているのだろうか。この日のオープニングパーティーに訪れていたセリーム・ウラさん(60)が教えてくれた。
「私が館林に来た最初のロヒンギャなんですよ。30年ほど前のことです」
やはり難民として迫害を逃れて日本にやってきたウラさんは当初、東京のインドカレー屋で働いていたが、少しずつお金を貯めて、なにかビジネスをしようと思い立つ。そのときに頼ったのは、同じように日本で暮らすロヒンギャの親戚だった。
そもそもロヒンギャとは、おもにミャンマー西部に暮らすイスラム系の少数民族のことだ。しかしミャンマー政府からは「バングラデシュからの不法移民」と扱われ、国籍を与えられず、90年代から虐殺や村の焼き討ち、差別に苦しみ続けてきた。
その数はおよそ100万人といわれているが、大多数が迫害によって国を追われ、日本を含むさまざまな国に逃れていった。最も多く暮らしているのは隣国バングラデシュだ。いまも70万人ほどのロヒンギャが難民キャンプで暮らしている。
中古車ビジネスから始まった
バングラデシュに逃れた人の一部は現地の国籍を取得し、日本に渡り、そして群馬県や栃木県、茨城県といった北関東各地で中古車ビジネスを手がけるようになっていった。中古であっても世界的に人気の高い日本のクルマを、おもに途上国に輸出するという商いだ。
このビジネスを北関東で最初に始めたのはパキスタン人だといわれているが、同じイスラム教徒のよしみでバングラデシュ人も行うようになっていく。その中に「バングラデシュ国籍のロヒンギャ」もいたのだ。彼らから、ロヒンギャのウラさんはビジネスのノウハウを学んだ。
「埼玉県の羽生市で中古車ビジネスをしていたパキスタン人にも手伝ってもらって、館林に来ることにしたんです」
館林ならヤード(中古車を置く倉庫)用の広い土地が比較的安く、中古車オークション会場のある群馬県藤岡市、栃木県小山市、千葉県野田市にもアクセスがよく、かつこの地域は工場地帯として発展してきたためバブル期から南アジア系の労働者が多く、彼らがモスクもハラル食材店も作っていた。生活の基盤があったのだ。
そんな館林に定住し、ビジネスを始めたウラさんのもとに、どんどんロヒンギャが集まってくるようになる。世話焼きのウラさんは仕事や住むところなどの面倒をよく見たのだ。やがてアウンティンさんも迫害の続くミャンマーを逃れ、館林に合流した。