事実とフィクションを織り交ぜた巧みな構成

阿川 『ルコネサンス』という本のタイトルはどういう意味なんですか。

有吉 フランス語で「再認識する」というような意味で、あるとき、本を読んでいて、この言葉に出会いました。知らないで普通に会っていた人が、「じつはあなたがそうだったんですか」というようなくだりで使われていて、いい言葉だなと思って。

阿川 なんの本ですか?

有吉 『オイディプス王』について書かれた本だったと思います。

阿川 読んでるものが違う(笑)。 

有吉 それで辞書で引いてみたら、他にも感謝という意味があったりして、おもしろい言葉だなと。父が生きている頃から、このタイトルだけは決まっていたんです。

阿川 ええっ、ってことは構想20年!?

有吉 そうですね。当時から、父との関係はおもしろいなと思っていて、「小説になるかもしれない」って考えていました。

阿川 その関係をおもしろがれたっていうのは、やっぱり小説家の視点よね。そして、そこがこの小説の構成のおもしろいところだと思うんですよね。明治のメリーミルクのパッケージみたいだなって思って。

有吉 どんなパッケージでしたっけ?

阿川 イラストの女の子がメリーミルクを持っていて、その中にまたメリーミルクを持った女の子がいて……とずーっと続いているんです。

有吉 ああ、わかります。絵の中にまたその小さな絵があって、という感じですね。

阿川 そうそう。そうやって果てしなく繰り返すことを「ドロステ効果」というそうで、永遠の中に引き込む効果があるらしいです。『ルコネサンス』も有吉玉青さんが書いているんだけれど、小説の主人公もこの事実を小説に書こうと思っているという入れ子構造が、まさにメリーミルクと同じだと思って。そこがすごく巧みだから、フィクションとわかりつつ、実話に読めてしまうのよね。

有吉 そんなふうに読み解いていただいてありがとうございます。自分でも書いているとどこまでがフィクションで、どこまでが事実か、わからなくなってくるんですよね。でも、困ったなぁ。ほとんどフィクションなのに、事実と思われたらどうしよう。

阿川 いやいや、そこがおもしろいところだし、もう全部本当ってことでいいんじゃない? だますことが小説家の醍醐味なんだから。

有吉 そう思えるといいんですけれど、やっぱり気になってしまう。

阿川 あと、読んでいて笑ったのが、珠絵が父親の足を見て、自分の足と似ていると気づく場面があるでしょう。私もその昔、トイレに座って、ふと足を見たとき、父に足がそっくりで愕然としたことがあって。私は父に似てると言われるのが、嫌で嫌でたまらなかったのに同じだわって。

有吉 阿川さんのお顔、お父さまに似てらっしゃいますよ。

阿川 はい、薄々自覚はしています(笑)。顔とか性格とか、嫌なところ、いっぱい受け継いだなって。高校の頃、学校でみんなで話していたとき、あんまり父が厳しいので、「私、もしかして、本当の子どもじゃないのかも」って、私が言ったら、地理の先生がガハーッと笑って、「そんなことはないわよ。あなた、お父さんそっくりだから」って。ガーンですよ(笑)。玉青ちゃんのお父さんの顔はどうでした? 似ていらした?

有吉 初対面では思わなかったんですけれど、似ていると思います。父が亡くなったとき、新聞や雑誌に出た写真を見た友達も「似てるね」って。

阿川 内面的に、お父さまから何か受け継いだなと思うことはありましたか?

有吉 「なぜドン・コザック合唱団を日本によんだの?」と尋ねたとき、「ああ、きれいだな。みんなに聴かせてあげたいなと思ったんだよ」と言ったんですね。私も何かに感動したら人に伝えたい。だから書く仕事をしているんだと、そのとき初めてわかり、これは父から受け継いだものかなと思います。

阿川 最初は「神さん」と呼んでいて、最後は「お父さん」と呼べたんですか?

有吉 父が雑誌のインタビューで、娘が自分のことを「お父さん」ではなく、「神さん」と呼ぶと、残念がっているのを読んだことがありました。でも、私、最後まで「お父さん」と呼ばなかったんです。その代わり、途中から「親父」って呼んでました。それは「お父さん」と呼びたくないからではなくて、「親父」のほうがあっていたからなんです。父もそれで満足していたようでした。一緒に過ごせたのは短い時間でしたが、父と会い、父という人間を知ることができたのは、私にとって、本当に幸せなことだったと思っています。

有吉玉青×阿川佐和子 『ルコネサンス』刊行記念対談 「小説家を親に持つ二人――「書く」ことで見えてきたものとは?」_3