一見、よくある「若者論」のように思えますが、言うまでもなくネットフリックスやメッセンジャーアプリは若者限定のサービスではありません。もちろん、自らも中高年である本書の著者は、かつて「作品」として「鑑賞」されていた「映画」が、「コンテンツ」として「消費」あるいは「消化」されるようになったという事実に戸惑っていることを率直に記しています。

しかしながら、著者は映画が「作品」たりうる芸術になってきた近代の歴史を振り返り、既存の絵画などの美術と比較して下等なものとされていた事実を参照します。映画館などの席に座り、ある作品の始まりから終わりまでそこから動かず、作品の時間的な長さと鑑賞体験の時間が一致する――このことは映画というジャンルの芸術性と深く結びつけられてきました。

しかし、90分の映画を45分で観たり、8時間ある長大な作品を倍速再生して4時間で観てしまったら、その鑑賞体験の内容はぜんぜん違うものになってしまいます。そのうえで著者は昨今の倍速再生を、黎明期の映画のような新しい体験としてこれから定着していくのかもしれない、と位置付けています。

つまり、本書は世代論を語っているわけでも、現在の若者はけしからんと言っているわけでもないのです。もしも真面目に倍速視聴について議論したいのであれば、何が倍速試聴を可能にしているのか、試聴される作品たちがどういう背景をもっているのか、を理解するべきでしょう。

テクノロジーとコンテンツは、産業の動向に合わせて変化をしていくものです。したがって、映画と絵画のどちらがすぐれているかを議論するのが不毛であるのと同様に、1倍速再生と2倍速再生を比較してどちらが良い鑑賞方法なのかを議論するのは不毛なのです。

むしろ重要なのは、倍速視聴が普及しつつあるのと同様に、今後また新しい鑑賞方法が現れて普及していく可能性があることを前提に考えていくことです。