ロックスターになりたくない
こうしてランディはイギリスに渡り、オジーと曲作りに励むことになる。二人は最初から一心同体のように通じ合っていたという。
「説明なんかいらないんだ。何をするかが分かってる。あの通じ方は驚異的だった。ランディは俺の人生の中で、初めて希望を与えてくれた奴だった」
1980年にリリースされた最初のアルバム『Blizzard Of Ozz』は絶賛され、ツアーも大盛況。オジーの不安は、一転して成功へと変わった。
リフ主体のブラック・サバス時代から、メロディ志向のソロ時代へ。その鍵を握ったのがランディの個性的なギターで、彼のクラシック音楽の旋律を取り入れたプレイは、当時のロックシーンには余りにも衝撃的だった。
悪魔崇拝、酒のトラブル、鳩やコウモリを食いちぎった事件など、オジーには常に黒いイメージがつきまとっていた。一方で、ランディは何もかも逆のような白く美しい天使のような存在であり、この二人の相反するコントラストこそが、最大の魅力でもあった。
1981年には2枚目のアルバム『Diary Of A Madman』もリリース。すべてが順調かのように見えたのだが……年が明けて全米をツアーしている頃、ランディはオジーに打ち明けた。
「オジー。僕はもうロックスターになりたくなんいだ」
一体何を言い出すんだ? オジーにはランディの言葉が信じられなかった。
「それがどんなに素晴らしいことか分かってるけど、僕は大学へ行って、もっとクラシックを勉強して学位を取りたい」
無口で真面目なランディは、ロックスターでいることよりも、クラシック音楽を追求したがっていた。ツアーの合間も、実家で母親のフルートと一緒にギターを演奏する物静かな青年だった。心の安らぎがどこにあるかを知っていたのだ。
その数日後、ツアー移動中のこと。
1982年3月19日早朝、米・フロリダ州でランディが乗ったセスナ機が墜落。メジャーデビューからわずか1年半。享年25。
オジーは「自分の中の一部が死んだ」と、深い悲しみに暮れた(注3)。立ち直るまで長い時間を要することになったオジーだったが、ランディ・ローズとの奇跡は、今聴いても心が震えるくらい美しい。
(注3) オジーはランディの死に大きなショックを受け、サバス時代以上にドラッグやアルコールに溺れることになったが、後年立ち直った彼はこう話している。「ランディと一緒に過ごした時間はまるで永遠のように思えた。本当に楽しかったよ。彼は俺にとって、本当に特別な人間だった」。1987年にはランディ在籍時のライブ盤『Tribute』をリリース。『Crazy Train』のPVには、ランディが愛用した水玉のフライングVが象徴的に登場。このギターはランディの母親宅に保管されていた。オジーはこの時のエピソードを語っている。「彼が死んだ時、彼のギターをケースに入れて閉めたのは俺だった。そして撮影の時、ケースを開けてみたら死ぬかと思うくらい驚いた。弦は錆び付いてたけど、吸いかけの煙草の箱が当時のまま残っていてね。不思議な感じでとても感傷的になったよ」
文/中野充浩
参考・引用/NONFIX特別企画『ランディ・ローズに捧ぐ』(フジテレビ)、『ヒストリー・オブ・オズ』(ソニー・ミュージック)