伝説の藤井―佐々木戦
藤井少年にタイトル戦の記録係をしてもらう、という私の目論見は失敗に終わった。その代わりにというわけではないが、私は第2の計画を立てた。藤井は2015年10月に中学1年で三段になった。史上5人目の中学生棋士になる可能性は大いにある。その藤井三段に、岡崎将棋まつりの公開対局という舞台で将棋を指してもらおうと思ったのだ。
岡崎将棋まつりは岡崎市出身の石田和雄九段が市の※葵市民に顕彰されたことを記念して始まり、2020年で27周年を迎えた歴史あるイベントである。公開対局の席上で将棋を指すのは、時のトップ棋士や将来を嘱望される新鋭棋士に限られる。
過去の出場者は、羽生善治九段をはじめ、谷川浩司九段、渡辺明名人、豊島将之竜王など、超トップ棋士が並ぶ。まだ半人前の奨励会員が舞台の上で将棋を指したことは一度もない。いくら強い奨励会員がいたとしても、その肩書きは「プロ棋士」ではない。
ものすごいレベルの高校野球の選手がいたとしても、その選手がプロの公式戦に出ることはないのと同じことだ。プロ棋士と奨励会員では戦う土俵が違うのである。
ただ、藤井聡太の名前は関係者の間ではすでに有名になっていた。最年少で奨励会初段になった藤井は13歳2か月で奨励会三段になり、三段昇段時の年齢でも過去の最年少記録を6か月も塗り替えていた。
さらに、例の詰将棋解答能力がある。毎年春に開催される詰将棋解答選手権のチャンピオン戦で藤井は並み居るプロ棋士を押しのけ、奨励会二段と三段時代に2年連続優勝していた。まさに「怪物の卵」なのだ。特例として公開対局を指してもらう価値は十分あると思った。
藤井三段の対戦相手には石田和雄九段門下の新鋭・佐々木勇気五段(当時)を選んだ。藤井の前に三段昇段の最年少記録を持っていたのは誰か?実はそれが、この佐々木勇気五段なのである。佐々木も小学校1年生でアマ四段になり、13歳8か月で奨励会三段になった天才少年だ。
ちなみに、プロ棋士が奨励会員と対戦することには基本的にメリットがない。プロ野球の現役投手が高校生にホームランを打たれたらメンツ丸つぶれになる。それと同じで、プロ棋士が公開対局で奨励会員に負けるのは恥でしかないからだ。だが、藤井との対戦を打診すると、佐々木はすぐに「いいですよ」と言った。天才は天才を知る。
佐々木も、この年下の怪物少年に興味を持っていたらしい。のちに、プロ棋士になった藤井はデビュー29連勝という奇跡的な快進撃によって時の人になったが、その連勝をついに止めることになったのも佐々木である。藤井と佐々木はおそらく生涯にわたって張り合う関係になる。そのファーストコンタクトがこの岡崎将棋まつりの公開対局であった。
この対局は注目された。メインイベントは渡辺明竜王(当時)と谷川浩司九段の対戦であったが、それを差し置いてテレビや新聞の取材が多数やってきた。これまた異例のことである。
第23回岡崎将棋まつりの公開対局。対局日は2016年5月1日で藤井は13歳と10か月だった。あとでわかったのだが、この時期の藤井は将棋ソフトを使った研究を本格的に始めてまだ半年ほど。「将棋の完成度はまだまだ」と本人も当時を振り返っているように、プロとして必要な将棋の知識、特に序盤に関する知識は佐々木のような上位者とはかなり差があったはずだ。
だが、天才同士の対決は誰もが息を呑む名局になった。戦形は矢倉。奨励会時代の藤井が最も得意としていた戦形であり、佐々木もそれを受けて立った。対局条件は持ち時間が5分、それを使い切ると20秒将棋というきつい条件だったが、若い天才二人にそんなことは関係なかった。
終盤は双方に詰めろ逃れの詰めろの妙手が3回も出る奇跡的な応酬となり、居合わせた棋士全員が目を見張った。藤井の指し手を見て「この子強いな」とうなったのは渡辺竜王。「こんな将棋を指されたら、あとで指す方はやりにくくなる」と苦笑したのは谷川九段。
結局、最後に妙手を指した佐々木が勝ち、藤井は惜しくも敗れたが、この将棋は「伝説の藤井―佐々木戦」として今も語り草になっている。
※三州岡崎葵市民・・・過去に岡崎市の区域内に居住又は市内で修学したかたで、現に岡崎市外に居住して、政治、経済、学術・教育、文化、スポーツ、芸能等の分野で活躍し、または業績が優れ、郷土の誇りとして市民の模範となるかたを顕彰する制度(岡崎市HPより)
モノクロ写真・棋譜/書籍『【増補改訂版】藤井聡太の軌跡 愛知の少年はいかにして八冠になったか (マイナビ新書)』より
カラー写真/shutterstock