策略

藤井が中学に入り、奨励会二段になった時、私はある計画を思いついた。藤井が将来の大物であることはもう間違いない。だとしたら、今のうちに何か伝説を残せないかと思ったのだ。

その一つとして、東海地方で行われる王位戦のタイトル戦の記録係を務めてもらうのはどうかと考えた。当時の王位は羽生善治。羽生王位が記録を取る藤井少年を見て、「今のうちに藤井君の色紙をもらっておくと価値がでますよ」と言う。かつて、中原王位が谷川三段を見て言ったセリフを羽生さんに言ってもらえないかと考えたのだ。これぞ、歴史は繰り返す、である。

まず、藤井の師匠の杉本昌隆八段に相談した。「藤井はまだ中学1年生ですからね。対局者に迷惑をかけることがないかと心配だが、棋力的には問題はないと思います。藤井はまだ記録を取ったことがないからタイトル戦の記録を取るのは勉強になるでしょう。もし日本将棋連盟がよいというなら、私は構いません」という返事をいただいた。

そこで今度は当時日本将棋連盟の会長だった谷川浩司九段にお伺いを立てた。谷川会長の返事は、「確かに私も中学生の時にタイトル戦の記録を取りましたが、その前に何局か記録を取って練習しました。何かトラブルがあってはいけないから、記録係の経験のない者にタイトル戦の記録を取らせるのは難しいです。何度か記録係を経験してからなら考えます」であった。

考えてみれば、これも当然の話なのだ。記録係というのは、長時間の対局中、ずっと将棋盤の横にいて、対局の記録を取り続ける。棋譜だけではなく、対局者の持ち時間の消費時間もつける。そうして、持ち時間がなくなると、今度は秒読みもする。神経も体力も使う役割で、勉強にはなるが、誰でも簡単にできる仕事ではない。特に、秒読みは対局の勝敗に直結する重大な業務で、過去には記録係の秒読みを巡ってトラブルになったケースが何度かある。

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そうなると、谷川九段が言うように藤井二段がタイトル戦の記録係を務めるには、それ以前に公式戦の記録係を務める必要があるということになるのだが、ここに一つ問題があった。藤井二段は愛知県瀬戸市在住の中学生。一方、将棋の公式戦は主に東京と大阪の将棋会館で行われる。藤井が記録を取るには東京か大阪に行く必要があり、学校との兼ね合いが出てくるし、移動や宿泊の手間も考える必要がある。簡単にはいかないのだ。

結局、「名古屋のイベントなど、何か機会があった時に記録を取る練習をすることを考えましょう」と杉本八段と話してその場は終わった。そして、その計画はやがて立ち消えになった。

藤井二段はあっという間に藤井三段になり、記録係をする機会もなく、史上最年少の新四段になってしまったからだ。