私が映画を志す理由となったもの
『コインロッカー・ベイビーズ』で受けた衝撃的な波動は、小説であるにもかかわらず、どちらかといえばパンキッシュなロックのそれでした。かつて協働作業を前提に作られたそのプロットを却下して、『タクシードライバー』の脚本家の弟レナード・シュレイダーと作り上げた長谷川和彦監督2本目の映画『太陽を盗んだ男』(1979)も、ガレージ・ロックといえる不良性を帯び、万人に向けた行儀の良いエンタテインメントの枠に収まらないエネルギーに溢れていました。
対するに、敵の組織の名前として冠していた“ドアーズ”から想起するアシッド・ロックの香りはどこにあるのだろうか? ニューヨークを舞台にした不良性の高いミュージカルならもっといっぱいあるだろう——『だいじょうぶマイフレンド』はサブカル的というにはあまりにもメインストリームに対する憧れに満ち、無邪気なポップスへと突然舵を切ったように見えたのです。
そのとき、小説のときのように向き合い牙を剥く相手の存在が、映画や音楽やダンスにはいないのか? それともキチンと敵意を練り上げていないのか? ピュアな憧れが映画が孕むべき悪意を解毒しているのでしょうか。
冒頭の合成カットをハリウッドの新興特撮スタジオ、イントロビジョンが手がけたり、ゴンジー・トロイメライ墜落の場面のために新宿副都心の高層ビルにあるプールとおなじものを撮影所に再現し、落着の衝撃でプールの水が全部飛び出してしまう、というとんでもない大仕掛けを組んだり、クライマックスはなぜかサイパンで大ロケーションを敢行したり、おそらく相当な規模の予算が投下されている様子です。
エンドロールを見ると『太陽を盗んだ男』のスタッフだけでなく、数年前素晴らしい成果を収めた『ウルトラマン80』(TV/1980)の中核メンバー、神澤信一さんや大岡新一さん、山口修さんの名前も見えます、が。
どうしてこんなことに——。
出来上がった内容を論じることは誰にでもできるでしょう。しかし、他の表現方法では冴えまくっていた作家の舌鋒が溶けてなくなっているのには、何か原因があるのではないかと疑ってみたくもなります。
すごいものを作れる機会がなぜ失われたのか?
それまでの日本映画が陥っていたどん底の状況下で、何と引き換えに環境の改善、作りたいものが作れる場が手に入ったのか?
それを理解するには、実に40年の歳月が必要だったし、それを知りたくて、映画を作る仕事を目指したのかもしれません。そのきっかけは、紛れもなく村上龍=原作・脚本・監督の『だいじょうぶマイ・フレンド』と、第15回で紹介した橋本忍=原作・脚本・監督の『幻の湖』、そしてもう1本あるのですが、そろそろ時間がなくなってまいりました。新しい映画の準備にとりかからねばなりません。そもそもこうやってあの何もない時代に先輩たちが汗水たらして作り出した作品を労せずして高みの見物がてらに訳知り顔で講釈を垂れていると天罰がくだるような気がして仕方がありません。
言いたいことがあるなら自分の作った映画で言えばいい——。
現状に対する不満ばかりで何一つ生み出そうとしない、使い物にならない若造に言い放った先輩の一言に従って今日まで作ってきました。
それでもまだ見ぬ映画の最新情報にときめいて居ても立ってもいられなくなるほど膨らむ期待に胸焦がし、高まれば高まるほど大きくのしかかるガッカリする絶望。それでももしかしたら今度こそは! そう思わせる可能性が雑誌の小さな紹介記事や映画館に掲出されたスチールやロビーカードで馳せる夢想こそが最高に盛り上がる映画体験だったような気がします。
まだ見ぬ映画が一番面白い———。
夢は醒めない方が良いのかもしれなかったのです。
それでも、私は作り続けたい。
あの高校生の時に根拠もなく「こうすればできるじゃん!」と天に唾してしまった落とし前を着けなければならないので!
文/樋口真嗣
『だいじょうぶマイ・フレンド』(1982) 上映時間:1時間59分/日本
監督・脚本・原作:村上龍
出演:ピーター・フォンダ、広田レオナ、渡辺裕之、乃生佳之 他
飛ぶ鳥落とす勢いだった村上龍の監督2作め。ストーリーなどは本項にあるとおり。キャスティング、音楽、美術など、豊かな人脈と資金のうえに企画され、結果、現在はほぼ幻となっているカルト作。集英社も出資し、原作を刊行している(集英社文庫)。