苦労しながら鶴見に定着していった沖縄の人々
「はじまりは1890年代の後半といわれています」
下里さんが解説する。明治時代になって日本に編入された沖縄県では、海外へと移民していく人が増えていた。本土に比べて経済的に貧しかったことから、海外に希望を見い出したのだ。1899(明治32)年には、初の移民船が那覇を出発。横浜港にいったん寄港して、それから太平洋を渡る手はずだったが、このときにハワイに向かわずそのまま留まった人たちがいたという。検疫などのチェックで引っかかったのだ。そんな彼らが住み着いたのが、横浜から近い鶴見や川崎だといわれている。
「その後、1920年代、30年代に沖縄から集団就職で鶴見に来る人が増えたんです」
鶴見から川崎にかけて広がる、京浜工業地帯の開発が本格化したからだ。全国から大勢の労働者が集まってきたが、とりわけ沖縄からの出稼ぎ者は多かった。
戦後になっても沖縄から鶴見へ、労働者の流入は続いたが、そこには苦労もあった。沖縄は米軍の統治下にあったため、本土へ渡るにはパスポートが必要だったのだ。
「銀行口座もつくれない、家を借りるのも難しかったと聞きました」
まさに外国人扱いだったのだ。だから沖縄の人々は県人会をつくり、鶴見の街でお互いに助け合って暮らしてきた。そして本土にあっても、沖縄の文化を大切に守り続けてきた。