このままでは、言葉の持つ美しさやパワーを子供たちが信じられなくなる

とはいえ、入試問題として難解な論説文を読み解かせることが、まったく無意味というわけではない。
抽象的かつ極めて難解な文章を入試問題とすれば、言語に対する認知能力が高い受験生に有利な状況が生まれる。
受験生の能力を測る選別手段としては、有効に働いているのだ。

だが、あまりにも難しすぎる文章の問題は、テストのためのテスト、あるいは学問のための学問にしかなっていないという批判も生じえるだろう。
普通の人には到底理解できない難解な文章で人を選別してしまったら、「社会で必要とされる実践的能力を育成する」という、学校教育の本来の目的から外れてしまうことになるからだ。

超難文を解析することが試験の中心になると、受験生たちは本質的な理解や知識の深化を目指すより、問題解決のための小手先のテクニックを習得することに焦点を置くようにもなる。

教育が本来推し進めるべきである、批判的思考や創造的問題解決法の育成ではなく、単に試験に対応する技巧を磨くことが優先されるとしたら、教育の在り方としては大いに疑問が残る。
まさに小説「国語入試問題必勝法」が風刺した世界観なのである。

photo AC
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また、難文が国語試験の中心になると、多くの受験生は過剰なストレスを感じるようになるだろう。
長期にわたるそうしたストレスは、子供の心の健康に悪影響を及ぼすだけでなく、国語学習への意欲の喪失にもつながっているのかもしれない。
本来、言語はコミュニケーションツールだが、難解で解釈困難な文章に苦しまされ続けると、言葉が持っている美しさやパワーを信じられなくなってしまうのだ。

あ〜、だめだだめだ。このへんでやめておこう。
この手の問題をこれ以上深く考えていくと、自分の文章まで回りくどくてわかりにくく、抽象的で偏屈なものになってしまいそうだ。

とにかく、難解な文章の解釈も重要なスキルだが、それに依存した試験による弊害は無視できない。
国語の入試問題の正しい在り方について、すべての受験関係者にもう一度よく考えてもらいたいものだ。

文/佐藤誠二朗