深夜のなか卯で

「とりあえず、そっち入っていいですか?」

「どうぞ」

僕も壁やテーブルをスリスリと手探りしながら細心の注意を払って、初めて、なか卯のカウンターの向こう側に入った。嬉しいような、申し訳ないような、何とも言い表せない変な気持ちになる。

いつも客として来ている店のカウンターに入ってしまうというのは、越えてはいけない一線を越えるような、ちょっと不思議な感覚だった。

ただそんな気持ちに浸っている場合ではない。

おじさんは何も知らない子供のような顔をして、僕の後ろについて来ている。

厨房に行って、上から下まで目を凝らして見たが、ブレーカーらしきものがない。

僕もあちこちでアルバイトをしてきたが、経験上、ブレーカーは鉄の扉みたいなものの中にあるのがほとんどだ。

「なんか鉄の扉みたいなもの、見たことないですか?」

「う〜〜ん、ないね〜」

手がかりが全くないまま、トイレの中や、ホールにもう一度戻って探してみたけれど見つからない。

「こっちは何ですか?」

「更衣室」

いつの間にか二人の距離が近づきすぎて、おじさんが僕にタメ口になっていることに気づいたが、構わず更衣室に入る。

入口のすぐ左側に大きな鉄の扉があった。グレーの壁にグレーの鉄の扉だから確かに見つけにくいけれど、これはどう見ても鉄の扉だ。

なんでこれに気づかないんだよ! と突っ込みたくなったが、もう扉が見つかったことが嬉しすぎてその気持ちも吹き飛んだ。

扉を開けると、スイッチがずらりと並んでいた。

「ありましたよ!」

「本当だ!ありがとうね!」

「ブレーカー上げていいですか?」

「はいはい」

ガチャ!

20分ぶりに、店内に明るさが戻った。

「いや〜、ありがとうね!」

「いえいえ!」

僕とおじさんは、深夜のなか卯で笑顔になっていた。

深夜のなか卯で店員のおじさんと心が通い合った瞬間。アンガールズ田中「なのにあれから世間話すらすることがない」_2
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それから僕はカウンターを出た。

おじさんと僕は、再び客と店員の関係に戻った。

牛丼はもうすっかり冷えていたけど、そんなことに文句を言う気も起きないくらい、達成感に満ち溢れていた。

さっきまであんなに二人で喋っていたのに、今は会話はない。

一杯の牛丼を食べ終わって、僕は店を出た。

あれから、3年も経つ。今でも頻繁に深夜のなか卯で二人きりになるけれど、あの停電の話どころか、世間話すらおじさんとすることはない。

「いらっしゃいませ」

「お待たせしました」

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

交わす言葉はただそれだけだ。

あの夜を二人で乗り切ったとは思えないくらい、よそよそしいというか、全くの他人。

停電が起きたときだけ二人の回路に電気が通じ合ったなんて、カッコいいと思う反面、どこか恥ずかしい。

ベストエッセイ2022に選出された母のお弁当の話

文/田中卓志
写真/shutterstock

ちょっと不運なほうが生活は楽しい
田中卓志
深夜のなか卯で店員のおじさんと心が通い合った瞬間。アンガールズ田中「なのにあれから世間話すらすることがない」_3
8月31日発売
1595円
224ページ
ISBN:978-4103552819
「どこかの優しい誰がか読んでくれたら……」。アンガールズ田中の初エッセイ集!
真面目すぎる性格なのにふざける仕事を志し、第一印象が「キモい」だった山根とコンビを組み、港区女子合コンの悔しさをバネにめでたく結婚。人気芸人の悲喜こもごも(悲、強め)の日常は、クスリと笑えて妙に共感。「ベスト・エッセイ2022」にも選出され280万人が涙した、母のお弁当の思い出を綴ったあの一編も収録!
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