誰に「オタク」と思われたい?

では、実際に若者は誰にオタクと思われたいのだろうか。

現実社会においては、他人からの「○○は映画に詳しいよ」「音楽について聞くなら○○だよ」という評価によって、実社会の交友関係のなかでオタクであると思われたいという承認欲求がそこにはあるだろう。

ネット(SNS)のコミュニティにおいては、例えば映画が趣味だから、SNSで他の映画ファンとつながって盛り上がりたいという欲求が生まれた場合、他のオタクと交流を持つためには、まず自分自身がオタクだと思われる必要がある。

コミュニティでのコミュニケーションのためにオタク=自分が何者かを示す必要があるのだ。

また、自身は現実社会ではオタクだと思われているけれども、それを保証(証明)してくれるものはないから、他のオタクから認めてもらうことで自信につなげたいと考える者もいるだろう。

今すぐ「何者か」になりたいZ世代がヲタ活にはまるワケ…自分がオタクであると発信することはアイデンティティを発信することと同義なのか_5

このような背景から、最短で「何者か=オタク」になりたいと考える者もいるようだ。しかし、コミュニケーションに重点を置いた個性はなんでもいいわけではなく、それについて興味がある人が多く、その個性に需要があるほうが、話題としてもコミュニケーションツールとしても価値が大きくなる(趣味に優劣があるという意味ではなく、あくまでもツールとして見た場合)。

コミュニケーションツールとしての個性として、高い需要があるのが映画界隈なのだろう。Twitterでは「映画オタクはじめました」「映画オタクになるにはどうすればいいか」といったツイートが散見されるが、ステータスとしてのオタクが欲しい(オタクになりたい)若者にとっては、いかに最短距離で、いかに手間をかけずにオタクになるかがタイパを追求する動機そのものになるわけだ。

だからこそ、ファスト映画を視聴したり、動画のスキップ機能を利用したり、ネタバレサイトを見たり、Twitterに溢れる猛者たちの論考や雑学をあたかも自分のオリジナルかのように引用し、知った気になったりする。

映画鑑賞の醍醐味ともいえる「初回の感動」を放棄するという非合理的な行動をとったとしても、彼らにとっては、時間をかけてその醍醐味を味わうこと自体が非合理的であり、とにかく省けるものを省いたほうが合理的なのである。