「私にとって『アントニオ猪木』と『猪木寛至』は違うんです」

「ブラジルへ行く前から『レスラーになりたい』と兄は言ってましたから、迷うことなく力道山についていきました。家族も反対することなくみんな背中を後押ししました」と啓介さんは当時を振り返る。

そして猪木さんは1960年9月30日にプロレスデビュー。以後の活躍は、誰もが知る通りだ。

トレードマークの闘魂タオルで叫ぶ猪木さん 写真/Getty Images
トレードマークの闘魂タオルで叫ぶ猪木さん 写真/Getty Images
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猪木家のきょうだいは、日本へ帰国する者もいたが、佳子さんはブラジルに残り結婚。2人の子供をもうけ、今もサンパウロに住んでいる。
2019年8月27日に猪木さんは田鶴子夫人と死別。それからほどなく猪木さんも難病「心アミロイドーシス」に冒されていることを公表した。晩年、猪木さんは毎日のようにサンパウロの佳子さんへ電話をかけていたという。

「話す内容は、『元気にしてる?』とかとりとめもないことでした。ただ、兄さんと話すと必ずあの農園で働いていた時代のことを互いに思い出すんです。あのときはものすごく苦労してつらかったんですけど、きょうだいみんな仲良くて一致団結して働いていたんですね。たぶん、兄もあの時代のことが懐かしかったんだと思います」

自ら、ブラジルは「俺の原点」と言った猪木さん。佳子さんとの電話は、人生の礎を育んでくれた広大な大地へ思いを馳せる時間だったのかもしれない。亡くなる3か月前に佳子さんはいつもの電話で猪木さんの異変を悟った。

「こっちの時間で夕方の3時に電話が来たんです。12時間の時差がありますから日本は午前3時。こんな深夜になんで電話を、と胸騒ぎがしたら兄が『つらくて眠れないんだ』と漏らしました。兄の弱音をこのとき、私は初めて聞きました。よほど体がつらいんだろうなと悟りました」

そして、亡くなる1週間前の電話が最後となった。

「テレビ電話だったんですけど、ベッドに横たわりながら、周りにはいろんな差し入れがありました。『こんなにいろいろあっても食べられないのにな』と言っていました」

2022年10月1日、猪木さんは79歳の生涯に幕を閉じた。

佳子さんは打ち明けた。

「私にとって『アントニオ猪木』と『猪木寛至』は違うんです。プロレスラーとしての兄は、いつも周りに大勢の人がいて何か遠い存在になってしまったと感じていました。だけど、きょうだいだけになると『猪木寛至』に戻るんです。私にとっての兄は、あの穏やかで優しい姿なんです」

猪木さんはブラジルの珈琲農園で「荒城の月」を口ずさんでいた。

「むかしの光 いまいずこ」

迎えた一周忌の10月1日。猪木さんの「光」を多くの人々が探し求める時間になるだろう。

取材・文・撮影/中井浩一

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