毎日2時間、暗闇の中で砲丸を投げる猪木
珈琲園では、男は労働し、母・文子さんら女性は、家事などで生活を支えたと佳子さんが振り返る。
「厳しい仕事が終わった後も寛至兄さんが泣き言を漏らしたことなんかありませんでした」
プロレスラーとしての言動から、一般的に猪木さんには“過激さ”を思い浮かべるが、妹の佳子さんは真逆の印象を抱いているという。
「子供のころから兄さんは、とてもおとなしくて口数が多い人ではありませんでした。穏やかでおとなしい兄でした。よく歌を口ずさんでいました。歌っていたのは日本の唱歌です。『荒城の月』なんかよく歌っていましたよ」
きょうだいは夜になると、兄の寿一さんは空手、快守さんはランニングなど、それぞれの趣味に没頭した。その中で猪木さんが取り組んだのが砲丸投げ、円盤投げ、やり投げといった投てき競技だった。電灯などない真っ暗闇の中、猪木さんは毎日、1~2時間ほど砲丸を投げ続けたという。練習には啓介さんが付き合った。
「明かりがありませんから、私がランプを持って兄を照らすんです。そして、砲丸を投げると私がランプの明かりを頼りに砲丸を探して兄に渡しました。そんな練習を毎日、2時間ぐらい繰り返していました。農園での労働と同じように黙々と夜空に向かって投げ続ける兄の背中を今も憶えています」(啓介さん)
リンスの珈琲農園での労働は、1年ほどで引き上げ、一家は新たに同じサンパウロ州の南東部に位置するマリーリアに移住し、今度は自ら綿の栽培に着手する。しかし、これが失敗。代わって手掛けた落花生の栽培が大当たりし、ようやく生活は軌道に乗った。このマリーリア時代に佳子さん、啓介さんが共に思い出す猪木さんの姿は、「馬」だった。
「落花生を馬に乗せて運ぶんですが、寛至兄さんは背が高かったから馬に乗ると足が地面に着いてしまうんです。その馬が小さかったのかもしれませんが、それぐらい兄さんの体は大きかったなぁって思い出します」と2人は微笑んだ。
落花生で成功した一家は、1960年から大都会サンパウロに移り、青果市場で働くことになる。そのころ、猪木さんはブラジル在住の日本人を対象にした陸上競技大会に出場し、砲丸投げで優勝する。これが日系人向けの新聞で報道され、ブラジル遠征中の力道山にスカウトされ、4月に日本へ帰国することになった。