エッセイもフィクションで構わない

石田 私からも岸本さんに質問していいでしょうか。岸本さんが訳された海外小説や、ご自身のエッセイを拝読して本当に面白かったです。自分が海外小説で最初に惹きつけられるのはタイトルで、何となく原題と引き比べてしまいます。たとえば、映画化もされましたがパトリシア・ハイスミスの小説『太陽がいっぱい』は、原題(The Talented Mr. Ripley)をそのまま訳すと「才能あるミスター・リプリー」のようになり、そのギャップが新鮮です。トーマス・マンの『ヴェニスに死す』も、昭和初期に出版された和田顕太郎訳では『ベネチア客死』というタイトルで、受ける印象が全然違います。これは翻訳者か出版社か、どちらがどうやって決めているのでしょうか。

岸本 翻訳書のタイトルは映画の邦題のつけ方とは違います。それから日本で初めて訳されたときと新訳でタイトルが変わる場合もあります。J・D・サリンジャーの『The Catcher in the Rye』も、繁尾久さん訳では『ライ麦畑の捕手』、野崎孝さん訳では『ライ麦畑でつかまえて』、村上春樹さん訳では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』となっています。サン=テグジュペリの『星の王子さま』も原題からそのまま訳すと「小さな王子」です。原題には星なんて単語は全く出てこないけれど、そこは最初に訳された内藤濯さんのみごとな裁量というかセンスですね。やっぱりタイトルのセンスが英語圏の人と日本人とは全然違うと思います。

石田 そこを伺いたいです。

岸本 大体の人はタイトルとカバーデザインでその本が面白いか、買うか買わないかを判断しています。日本で出版されるまで、最もその本について知っているのは翻訳者。何度も繰り返し読んでいるから、もしかすると作者よりも知っているかもしれません。だから売れてほしいし、たくさんの人に読んでほしいから、それに見合ったタイトルをつけるのはかなり大事な仕事だと思います。そういう意味で翻訳者はプロデューサーのようなところがあります。

石田 担当編集者といくつも案を出し合うのでしょうか。

岸本 そういうときもあります。訳者が考えて駄目出しされることもありますし、とても訳しにくくて困ったことも。『我が友、スミス』はすぐに思い浮かんだのですか?

石田 筋トレで使うスミス・マシンが人の名前みたいで面白かったのと、呼びかけるようなタイトルがいいなと思いました。

岸本 迷いなく決まったんですね。

石田 はい。あと、翻訳のときに登場人物の会話の語尾をどうするのかも、訳者の裁量で決まるのでしょうか。

岸本 そうですね。でも、語尾の問題は奥が深い。女性のセリフの語尾としてよく使われてきた「〜よ」、「〜だわ」、「〜ね」は、「よわね問題」といって同業者の間で最近よく話題になります。女性の役割語のように使われていますが、現実の会話ではもうあまり言いませんよね。でも女性同士がリアルに喋っているのをそのまま書き写すと、たぶん男性言葉とほぼ同じになるし、文字上ではかなりぶっきらぼうな感じになってしまうので、ある程度仕方がないところもあります。とはいえ十年前に自分が訳したものでも、今読むと女性のセリフがちょっと、もう違うなと思うことがあるし、重版がかかったり文庫になったりするときに直す場合もあります。悩ましい問題です。

石田 英語圏の小説と日本の小説で表現されやすいことの違い等はあるのでしょうか。たとえば日本の小説だとこういう描写が多いとか、アメリカの小説だとこういう描写が多いとか。そういうことは国や言語の違いではなく、それぞれの作家次第なのでしょうか。書きっぷりの違いといいますか。

岸本 作家個人によるでしょうね。翻訳家は楽天的でないとできない職業だといわれています。全然違う文化を持ち、違う日常を暮らしていて、肌の色も話す言葉も異なる作家の書くものを、自分たちとは全く違うと思いながらだと一語も訳せない。人間なんだから基本的な喜怒哀楽はそんなに変わらないだろう、という気持ちで訳すしかない。

石田 そうですね。

岸本 でも、文化の違いで「えっ?」と驚くことはありますね。たとえばアメリカ人と日本人では、トイレの個室の感覚が違っていてびっくりします。アメリカの小説で女の子が二人で個室に入り、おしっこを代わる代わるしながらおしゃべりする場面があったり(笑)。アメリカ映画でも、個室の扉の上下が結構空いていて、上は顔が丸わかりだし下はふくらはぎが見えるとか。喜怒哀楽や人間としての根幹は同じでも枝葉末節のところでかなり差異を感じることがあって、その違いは面白いです。

石田 岸本さんは留学されたことはあるんでしょうか。

岸本 ないんです。

石田 翻訳家の方は帰国子女とか英語圏の大学を卒業したとか、勝手にそうしたイメージを持っていましたが、そうではないんですね。プロの方なので当然と言えば当然ですが、その文化圏に直に触れたことがないのにリアルに訳せるのはすごいと思います。

岸本 翻訳家で外国に住んだことがない人は意外とたくさんいる気がします。みんながみんな外国語がペラペラっていうわけでもないです。話すのと辞書を引きながら訳すのは異なる作業ですからね。もちろん両方できればそのほうがいいでしょうが、話せるからといって翻訳ができるわけではないし、逆もそうです。

編集部 石田さんはある媒体からエッセイの依頼を受けられたと伺いました。

岸本 何について書いてほしいという依頼なんでしょうか。

石田 お題はなく、二千字くらいでとご依頼がありました。

岸本 エッセイだと身構えると、みんなエッセイ脳になってしまって、ちょっと素敵なことを書かなきゃいけないと思いがちですよね。

石田 はい。自分の中では今正にそんなふうになっています。酒井順子さんや群ようこさんのような。

岸本 ぜひ石田さんの素全開で書いてほしいなあ。私はぜひそういうのを読みたいです。

石田 岸本さんのエッセイ集を拝読しました。電車の中で聞いた会話で子宮の真似をする、という話がツボに入り、半日くらい思い出し笑いが止まりませんでした。

岸本 あれは本当にそのままの話だったんです。言った本人に届いていればいいなと思います。

石田 またタイトルの話を訊いてしまうのですが、岸本さんはエッセイ集をまとめる際に、収録されているエッセイのタイトルの一つを、そのまま本のタイトルにされていますよね。『なんらかの事情』とか『ひみつのしつもん』とか。あれは直感やセンスで、これだ、と選ばれているのでしょうか。

岸本 そう訊かれると恥ずかしいです。最初に出したエッセイ集『気になる部分』では、何となく中のエッセイのタイトルから取りました。その次の『ねにもつタイプ』は、『気になる部分』とイントネーションを揃えたかっただけなんです。その次はもうどうしていいかわからなくて、装丁をしてくれたクラフト・エヴィング商會の二人に相談し、『なんらかの事情』がいいんじゃない、と言われて「なるほど!」とそれに決めました。だから意外といい加減。

石田 そう聞いてちょっと安心しました。

岸本 エッセイもフィクションで構わないんですよ。私もときどき「お前の書いていることは噓ばっかりだ」と批判されることがありますが、本当のことだと言い張ります。だって頭の中で起こっていることの実況中継だから。そういう意味ではどんなことを書いたって本当だと思っています。だから素敵なことよりも、溶接とか配管の話でいったほうがいいです。

石田 あまりに攻めたことを書いたらどうなるのでしょうか。

岸本 気にせず攻めていってください。怒られたら直せばいい、ぐらいの感じで(笑)。小説のほうは、次に書きたい作品や今書いているものはもうあるのでしょうか。

石田 今は会社員の話を一人称「私」で書いています。おじいさんが職場から迫害されて、それを助けようとする人の話です(笑)。自分の中にある引き出しが少ないので、これから増やしていきたいと思います。

岸本 それは長編ですか?

石田 百五十枚くらいだと思います。もっと少ないかもしれません。

岸本 書いた後、結構直しますか?

石田 直します。何でこんなに長いのかと、削ることが多いです

岸本 でも削れるってすごい才能ですよ。それも早く読みたいです。今からとても楽しみです。

(2021.12.27 神保町にて)

「すばる」2022年3月号転載

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