生存者の証言をもとに辿り着いたガマ
ぼくの印象に強く残っている、ガマの話をもうひとつ紹介しましょう。
Mさん(浦添市出身)は、家族といっしょに山の中の大きなガマに避難しました。そのガマには、アメリカ軍が上陸する前、3月ごろから多くの住民が逃げ込んでいたのですが、戦況が悪化した4月になると日本軍が入ってきました。
ガマには、つねに50人くらいの日本兵が出入りしていて、夜になるとアメリカ軍の夜営地に切り込みに出かけていき、その多くはもどってこなかったそうです。
そのガマが、アメリカ軍に発見されて、入り口がつぶされてしまいました。ガマの上部にダイナマイトがしかけられているようで、爆発のたびに落盤が起き、Mさんの目の前で兵隊や住民が大きな岩の下敷きになっていきました。ガマの壁にくっつくように立っていたMさん家族は、落盤からは助かったのですが、ガマの中に閉じ込められてしまいました。
生き残った兵隊たちが、人ひとりが腹ばいになってやっと通れるくらいの小さな穴をこじ開けて、どうにかガマから脱出できるようなりました。兵隊たちはわれ先にはい出ていきました。つづいてMさんが外へ出ようとしたとき、足もとから声がしました。暗闇のなか、マッチをすり、その炎をたよりに足もとを見ると、初年兵が下半身を大きな岩にはさまれ、身動きできずに横たわっていました。
「ぼくはT村出身のNという者です、私がここで死んだことを、どうか私の家族に伝えてください」と、その初年兵はMさんにすがるように頼みました。
戦後、MさんはNさんの家をさがしあて、その最期を伝えました。しかし、家族は「Nは摩文仁で死んだことになっている」からといって、話を聞いてくれませんでした。
ぼくはMさんの体験を沖縄戦の史料で知って、Mさん家族が逃げ込んだというガマを見つけたいと思い、知人のKさんと2人で浦添の山中を歩き回りました。
2週間後、ぼくたちはそのガマをようやく探しあてました。つぎの日曜日に掘ろうと準備していたところ、「埋まっていた入り口を開けたので、中に入れるようになった」とKさんから電話が入りました。急いで駆けつけると、すでにたくさんの遺骨が掘り出されていました。