犬橇をはじめることにした「ある出来事」
それまで橇を引き、歩いて旅をしていた私が、急に犬橇をはじめることにしたのは、前の年の狩猟漂泊旅行で経験した、ある出来事がきっかけとなった。
フンボルト氷河周辺で海豹狩りに失敗したことだ。
フンボルト氷河はシオラパルクの村から直線距離で三百キロほど北にある巨大な氷河である。氷河の近海は海豹の繁殖地で、春になると多くの海豹がごろごろと気持ちよさげに昼寝しはじめる。この旅では、狩りをして食料を自給しながら可能なかぎり北をめざすというのがテーマだったが、それにもかかわらず私は、その地域最大の猟場で海豹を獲ることができなかった。
その最大の原因が人力橇という移動形態にあったのはまちがいない。
当たり前だが、海豹が、私が行こうとする方向で都合よく昼寝してくれるわけではない。はるか右手前方に出る場合もあれば、左手後方にあらわれるときもある。あっちの海豹に接近をこころみては逃げられ、今度はこっちの海豹に近づいては見えなくなり……とくりかえすうちに、重たい橇を引いている私はすっかり疲弊し、人力橇では海豹を獲ることは困難である……と悟ったのだった。そして私の頭ではピンと閃いたのである。犬橇なら獲れるのではないか、と。
そうだ、来年から犬橇をはじめよう。犬橇なら機動力があるので、あちこちを動きまわって海豹を狙うこともできる。もしフンボルト氷河で海豹の肉を入手できたら、人力橇では行けなかったもっと北の地へ達することができるはずだ。
そのとき私は目の前に新しい世界が開けたのを感じた。海豹の狩猟欲がきっかけで生じた閃きが、さらにスケールの大きな可能性につながっていることに気づき、異様な興奮をおぼえたのだ。
犬橇でさらなる僻遠の地に行くことができれば、フンボルト氷河とはまた別の、獲物の豊富な〈いい土地〉が見つかるかもしれない。そして新たに発見した〈いい土地〉を足場に、そこからさらに先の土地にも足をのばせるかもしれない。行く先々の様々な場所で〈いい土地〉を見つけて、それをネットワーク化し、自分の土地として拡大してゆく。
獲物の棲息地だけではない。グリーンランド北部からカナダ・エルズミア島一帯にかけて知らないところがないぐらいくまなく探検し、氷や大地の状態をふくめた土地のあらゆる知識を異様なほど高める。どこの海や谷が効率のよい移動ルートであるかわかれば、狩りをしながらあらゆる場所を旅できるだろう。もしかしたら百年前のイヌイットのように地図をもたずに、この地球最北の地を自在に動けるようになるかもしれない。
普通の人には現実離れした妄想に思えるかもしれないが、長らくこの地を旅してきた私にとって、それはとても現実的な選択であり、かつとても自然なつぎの一歩に思えたのだった。めざすのは、もはや目的地到達にとらわれた近代的視点による冒険ではない。狩猟者の視点を獲得して、その目で土地をとらえなおし、測量地図には載っていない〈いい土地〉を見つけ、そこから浮かびあがる素のままの〈裸の大地〉、これを旅するのだ。
それができたら時代を超えた旅になるだろうし、人間が自然とのあいだにつむいできた始原の地平に触れうるかもしれない。そんな思いが腹の底からめきめきと立ちあがってきて、完全にそれに呑みこまれてしまったのである。
文・撮影/角幡唯介
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