全身を筋肉の塊にして氷原を凄まじい勢いで疾駆
だがホッとしたのもつかの間だった。犬たちは突然、近くにいた村人の犬にむかって襲いかかった。
「アウリッチ!アウリッチ!」
〈動くな〉の号令を叫びつつ、橇後部の梶棒をつかんで動きを止め、私は先導犬の名前を叫んだ。
「ウンマ!こら!アハ、アハ、アハ……」
なぜ先導のかけ声はこんなに間抜けなのだ……との不条理さを嚙みしめ、アハアハを連呼すると、ようやくウンマはほかの犬と一緒にもどってきた。賢い犬だからたすかったが、この調子だと村人の犬の前をとおるたびに大混乱になりそうだ。
ひとまず定着氷のうえにアイススクリューを打ちこんで橇を固定し、定着氷から海氷への下り口をさがした。完璧なまでに、美しいといえるほど犬を制御できていないので、これぐらい慎重にやらないと、何かの拍子に犬が突っ走って闇のむこうに消える危険は高い。
私が恐れているのは犬の暴走だった。極夜の闇で犬に暴走されたら発見の見こみはない。犬に置いてけぼりをくらい、その姿を村人が家のなかから双眼鏡で見て大爆笑する、というのが犬橇初心者がおかす典型的な失敗である。
うまいこと下り口を見つけたあと、それ以上は考えられないほど慎重に犬を誘導し、海氷のうえにおりたった。そしてそのままアハ、アハ……と言いながら犬の前を進んだ。
前方では、雪をかぶった海氷が白い絨毯となって暗黒の空間に消えていた。
いよいよこのときがきた。私は「デイマ(行け)!」と号令を出した。刹那、五頭の犬は、溜めこんでいたエネルギーを四肢に圧縮させて爆発させた。犬たちが疾風のごとく目の前を通過したかと思った瞬間、すぐ後ろから橇がふっ飛んできた。かろうじて飛び乗り、ふりおとされないように必死にしがみつく。
なんとか体勢をなおし、横を向いて正常な位置に座りなおした。
よっしゃ!いきなり乗れたぞ。
何度も犬に逃げられることを覚悟していただけに、いきなりの成功がわれながら信じられなかった。天才かもしれん、と錯覚した。
久しぶりに自由をあたえられた解放感から、犬たちは喜びを爆発させ、全身を筋肉の塊にして氷原を凄まじい勢いで疾駆した。犬たちのエネルギーが、ぴんと張った引綱をつうじて橇にもつたわってくる。氷点下三十度の凍いてつく外気が、風の刃となって私の頰を突きさす。
闇夜にうかぶ満月が北の空で雪原を照らしていた。
これが犬橇か―。
このままどこまでも駆けてしまいそうだった。