惨事となってしまったラフィンノーズの野音ライブ

続いては、高校生の僕のイチオシバンドだったラフィンノーズのライブ告知チラシ。
1987年4月19日に東京・日比谷野外音楽堂でおこなわれたライブ「4.19不法集会」のものである。

2枚組だった野音ライブの告知チラシ。右はレポート用紙にワープロでただ印字しただけ。左はラフィンのデザイン担当だったベース・PON氏による手描きなのだろう
2枚組だった野音ライブの告知チラシ。右はレポート用紙にワープロでただ印字しただけ。左はラフィンのデザイン担当だったベース・PON氏による手描きなのだろう

当時のラフィンノーズは日比谷野外音楽堂で定期的にライブをおこなっていたが、僕が最初に野音のラフィンを観たのは、このチラシのライブの半年前、1986年10月26日のことだった。

僕が初参戦した1986年10月26日・野音ライブのチケット半券
僕が初参戦した1986年10月26日・野音ライブのチケット半券

この頃のラフィンのライブは過剰に加熱気味だったので、その日のライブは全席指定のうえ、主催者側が多数の警備員を動員し、血の気の多い若きパンクスが無茶な行動をしないよう、完璧な制御をしていた。
しかし、「日比谷野音クーデター」というタイトルとは裏腹のそうした管理下ライブにファンが反発。
「ラフィンは終わった」「こんなのパンクじゃねえ!」という不満の声がライブ後に上がり、それはメンバーや主催者の耳にも届いたのだろう。

翌1987年4月19日の野音ライブは、前回とはまったく違い、警備が最小限に抑えられていた。というか警備員はまったく見当たらずほぼ無制御状態で、安全の確保は個々人の客に委ねられていた。
会場に入ってそのことを知った僕は「やっぱパンクのライブはこうじゃなきゃ」と嬉しくなったが、まさかあんな悲劇を招くことになるとは……。

席が指定されていたのかどうかは記憶にないが、ライブスタートと同時に多くのファンが前方へ殺到。
弱冠17歳で異様に元気だった僕も、当然のごとく前方の超密集空間に突進したのだが、何か普通ではないことが起こっていることはすぐに察知した。
過剰密集になったうえ興奮状態で踊りまくる群衆の中、コンクリート造りの固定椅子に足をとられて転倒する人が続出していたのだ。

一緒に来ていたベースのよっちゃんやギターのシダラとあっという間に離れ離れになってしまった僕は一人、転ばないように耐えながらもラフィンの演奏を夢中で聴いていた。
2曲目3曲目と進むうち、足下に人が倒れているのを感じ、「踏むなー!」と叫ぶ声も聞こえた。普通のライブだったらみんなで手をひっぱって助け起こすところだが、この過密状態ではそれもままならなかった。
少しでも体勢を崩して転んでしまえば、次は自分がたくさんの人に踏まれることが明らかだったからだ。

そして4曲目が終わったとき、ラフィンのメンバー全員がステージ袖に引き上げ、代わりに主催者が出てきて、倒れている人を起こしてステージ上に運んでほしいとアナウンスした。
僕も周りの人たちと協力し、ぐったりしている人をステージへ押し上げた。

状況がわかっていない後方のファンから「何やってんだー! 早くやれー!」と怒号が飛ぶなか、今度はボーカルのチャーミーが出てきてマイクの前に立ち、「いつもと違うんや! (運ばれてきた人たちが)息してへんのや!」とオロオロ声で叫ぶと、客席は一瞬、水を打ったように静まり返った。
やがて遠くから何台もの救急車のサイレンの音が近づいてくるとともに、ライブ中止が宣言されたのだ。

結局その事故で、当時の僕と同世代の3名の若い命が失われた。
このチラシは見るたび、いまだヒリヒリするようなあの日の記憶が蘇る。