天下り先を転々と歩いてそのつど退職金を手にする"渡り"

こうした時代の趨勢を物語る構図は、官僚にとって退官後の人生設計を保証する天下りにも顕著に現れている。天下り先を転々と歩いてそのつど退職金を手にする〝渡り〟が厳しい批判を浴びたが、近年、その道は著しく狭められてきている。

財務省で言えば、日本輸出入銀行、日本開発銀行、国民金融公庫、海外経済協力基金の総裁など、事務次官経験者の指定席も風前の灯ともしびといった状態にある。行政改革でこれら政府系金融機関の民営化・統廃合が進んだのに加え、次官を押しのけてプロパー(生え抜き)がトップに就く人事が当然視されるようになったためだ。

43年組、66年組と並んで、「花の……」と呼んでいいのは79(昭和54)年組で、前代未聞の同期から三人の次官を出した。木下康司、香川俊介、田中一穂の三人だが、次官退官直後に壮絶な死を遂げた香川は天下りと無縁だったが、残る二人はどうだったか?

田中は国民金融公庫などを中心とした日本政策金融公庫総裁に就いた。田中の前任の細川興一も元財務次官で、二代続けて次官の天下りポストを確保した。第一次安倍晋三内閣で首相秘書官を務めた田中だが、異例の同期三人目の次官になれたのは安倍の強力な推薦があったためとも言われるし、政策金融公庫総裁就任も安倍政権の後ろ楯があっての人事と見る向きが多い。

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政府系金融機関のトップを総なめにしてきた
財務省の全盛

そんな官邸主導の人事とは裏腹に、79年組では本命中の本命次官だった木下は、日本開発銀行などを母体とする日本政策投資銀行に社長含みの副社長で天下りした。ところが、財務省OBの厚遇を快く思わない官邸が待ったをかけ、生え抜きが社長に昇格する一方、木下は社長を素通りして代表権を持つ会長に収まった。

政府金融機関の中でも格が高かった輸出入銀行は、国際協力銀行に衣替えし、一時は渡辺博史元財務官(72年)が総裁に就いたものの、以後は二二年の人事で財務省出身の林信光副総裁が総裁に就いて一矢報いたが、一時は民間金融機関出身者や生え抜きがトップに就いた。同期から5人の次官が輩出したり、政府系金融機関のトップを総なめにしてきた財務省全盛の時代も今は昔、「次官の指定席」といった常套句は過去のものになってしまっている。