2回目で登頂に成功したほうがドラマチック

「ガイドにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って」死後も登山仲間たちが栗城史多さんを語りたがらない理由_2
エベレスト

私が森下さんに会いたかった一番の理由は、森下さんが初回に続き、2010年、栗城さんの2回目のエベレスト遠征でも「副隊長」を務めていたからだ。

2009年の初挑戦は、標高7850メートルでの敗退だった。8848メートルの山頂とは、ほぼ1000メートルの開きがある。森下さんは、栗城さんがこの標高差を克服できると思って同行したのだろうか?

「いや、仕事です」

あっさりと森下さんは言った。

「9月下旬ぐらいになると、北海道の山は霙とか降って閑散期になるんですよ。その時期に仕事が入るのはありがたいので。ボクもプロなので、飛行機代は出すからボランティアで来てくれと言われても行けないです。栗城を認めているわけではありません」

「登れるとは思っていなかったんですね?」

「うーん」と、森下さんは少し考えた。

「彼が高所に超人的に順応できて、プラス、風がなく快晴、すべての好条件が揃えば、可能性は低いけど、もしかしたら……ぐらいですかね」

実は、と森下さんは続けた。

「1回目エベレストに行ったとき、あいつ、ボクにこう言ったんですよ……今回は登れなくてもいいと思ってる、2回目に登れたらむしろその方がいい……。テントでボクと2人きりのときで、それ聞いてしまったら仕事ができなくなるから聞かなかったことにするわ、って彼には伝えましたけど」

いきなり登頂に成功するよりも2回目でリベンジした方がよりドラマチックだ……と演出家は考えていたようだ。

「あいつが本当に登りたいなら2回目はそれなりの準備をしてくるだろうな、という期待も少しはありました」

リベンジを目指す栗城さんが選んだのは、前回のメスナールートではなく、ネパール側から南東稜を登るノーマルルートだった。私は彼から「中継にはチベット側が適している」と聞いていたので、彼の死後その足跡をたどるまで2回目以降もチベット側から挑戦し続けたのだと思い込んでいた。技術スタッフがネパール側から電波を送る手だてを考えたのだろう。